Side ユーレイ 2(約6400字)

2015年04月09日 14:53
 船は慌ただしさのど真ん中にあった。いつもニコニコしている防寒帽とキャスケットが、見たこともない険しい顔で周囲に指示を飛ばしている。
 ここは外界とを繋ぐ鉄扉前の廊下。向こうには青空が広がり、軍艦が何隻か見える。さらにその向こうには幾筋もの黒い煙。
 戦闘があったのか。
 ヒューマンショップ前で見かけた大男が、甲板で空から落ちてきた何かを受け止める。そのうちの小さい方を白くまが受け取った。とても不安そうな顔で船内に駆け込んでくる。白い毛並にべっとりと血が付いていた。

「ルフィ!」

 思わず叫んだ声は誰にも聞こえていない。
 大男が抱えた巨体にも見覚えがある。ジンベエだ。
 二人は奥の部屋に運ばれて行った。
 白くまが手ぶらで戻ってきて、扉の前で外を見ていたローに何か言っている。少しの間を置いて、彼の手に何かが飛んできた。ルフィの麦わら帽子だ。
 大きな鉄扉はぴったりと締められ、船は海へ潜る。
 ローは麦わら帽子を持って奥の部屋へ足早に移動し、サンジもそれに続いた。そこは何度となく来たことのある手術室だった。
 ローが自身の刺青を施した手術台に、血塗れのルフィが横たわっている。


 ああ、これは、あの時だ。
 オレたちがバラバラに吹っ飛ばされて、元いた場所に戻らなくてはと躍起になって、もがいていたあの時。


 新聞記事でしか見ていない。
 ルフィは兄エースの公開処刑を阻止する為に駆けつけ、そして目の前で兄を失ったと。その際に自らも負った傷が生死に関わるものであったと。
 それが更に焦りを生んだ。どうしてこんな時に、自分は彼の傍にいてやれないのか。早く、早く傍に駆け付けてやらなければいけないのに。
 船ひとつ確保することができない自分を呪った。

「ルフィ! ルフィ!」

 聞こえていないのは分かっているが、呼びかけずにはいられなかった。やがて戻って来る命だとわかっていても、目の前で消え入りそうになっている唯一無二と定めた己の船長の命に、ありったけの思いで呼びかけるしかできないのが歯痒い。
 ローが能力を使い、ルフィの傷口を細かく切り刻んでいく。灼け爛れた組織片。肉の焦げる匂いがするようだった。横たわる体はピクリとも動かない。
 医術の心得があるクルーたちは怒鳴り合うように指示を飛ばしていて、途轍もない喧噪に包まれているはずなのに、サンジは静寂の中にいた。よろよろと後退りし、どんと壁に強く背を打つ。
 ルフィから血が溢れる。輸血の血液バッグがぶら下げられる。
 ルフィの呼吸が弱くなる。酸素マスクが口許を覆う。
 ルフィの体が、死に近付いていく。ローが、繋ぎ止める。


 ルフィ……!
 こんな、こんな状態でお前は……。
 お前は、帰ってきてくれたんだな。オレたちの元に。
 ゴメン、傍にいてやれなくてゴメン……!


 サンジは壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込む。両手で顔を被い、誰に憚ることなく泣き崩れた。泣いたところで聞き咎める者などいない。音の無い世界で、自分の声だけが響いていた。
 どれだけの時間、そこに留まっていたのだろう。ゆっくりと顔を上げると、あんなに忙しなく所狭しと蠢いていた多数の人間の姿が消えていた。
 サンジは慌てて立ち上がる。ルフィの傍まで駆け寄るとその姿に愕然とする。
 たくさんのチューブに繋がれ、点滴や輸血も続いている。口許を覆う酸素マスクに隠れているが、唇はきっと血の気が引いて真っ青だ。実際目許も昏い影を落としている。周囲を囲んだ計器類がピッピッと不規則に波形を揺らしていて、それがルフィの命の動きなのだと思った。
 傍にはローの愛刀が真っすぐに床に突き刺さっている。サンジにはそれが、死の影からルフィを遠ざける守刀のように見えた。
 ベッドに手をつくが、そっと伸ばした指先にルフィの体が触れることはなく、するりとすり抜けてしまう。手を包帯に包まれた胸へ置くように重ね、じっと動きを見つめる。微かに上下する薄い胸板はサンジの手を僅かに通過することを繰り返し、呼吸しているのだと初めて安心できた。
 ホッとして気付いたが、すぐ傍にローが椅子に腰掛けて項垂れていた。こちらも全く動かず、おそらくサンジがこの場にいることに気付いていないだろう。
 ローの能力は、使えば使う程体力を消耗すると言っていたと、ウソップから聞いた。サンジも先程まで行われていた手術を見ていた。戦闘時に大胆に能力を使うのとは違い、患部を、患者を慈しむように動いていた手。繊細な作業を何時間続けていたのだろう。

「ロー」

 呼びかけても聞こえない。
 サンジの声は誰にも聞こえない。


 ロー、ロー!
 ありがとう。ルフィを助けてくれて、本当にありがとう。
 お前には感謝してもしきれない。


 椅子に座るローの背後へ歩み寄る。サンジよりも大きなはずの体は背が丸くなり、なんだか少し小さく見えた。
 疲れた背中にそっと腕を伸ばす。後ろから抱き締めるように、首に腕を回し、耳許へ唇を寄せる。

「ありがとう」

 聞こえていなくてもいい。
 伝わらなくてもいい。
 言わずにはいられなかった。
 自分の命をも救われたような思いだったのだ。

「ロー」

 自分の声で目が覚めた。瞼を持ち上げるだけの動作をすると差し込む灯りに目が眩む。思わず目を細め、のたりと体を起こした。
 ダイニングテーブルでうたた寝をしていたらしい。時間にしてほんの一時間程度だが、とても濃い時間を過ごしたように思う。枕にしていた両腕の袖とテーブルを見遣って苦笑する。どれだけ泣いたのだという程、涙でぐしょぐしょになっていた。もしかすると声をあげていたのかも知れない。部屋や、誰かがいる前でなくて良かったと息をつく。
 仲間の誰も知り得ない、傍にいることができなかった時のルフィのこと。みんな、サンジと同じように新聞記事や伝聞で知っただろう。
 ルフィがどのように傷つき、命を取り留め、ここで笑っているのかを、今はサンジしか知らない。
 気が付くと足は男部屋へ向かっていた。月明かりに冴える甲板を突っ切って、扉をゆっくりと開ける。中には大小様々な音色のいびきが犇めき合っていた。靴音を殺すように近付き、ルフィの傍へ行く。
 ボンクから手足をはみ出し大きな口から涎まで垂らして眠る姿は、二年前と変わらず幼さでいっぱいだ。だがこれがひとたび戦闘へ身を投じると、背筋が震える程の覇気を纏い、嬉々として強敵へ向かって行く獣になる。
 前を留めずにいつもはだけている赤いシャツから見える大きな傷。手の平を載せるとひたりと吸い付いた。傷の部分が引き攣れて色を変え、ルフィの中心に現実を刻み込んでいる。
 仲間を守れなかった、命を失いかけた、兄を喪った、証。
 これはサンジたちクルーにとっても戒めである。あの時を二度と繰り返さないための。
 再びルフィと、仲間と一緒に海へ出る機会を与えてくれたのはローだ。自身を削ってまでルフィを救ってくれた。彼がいなければ、今の麦わらの一味は存在し得ない。
 サンジは崇拝にも似た思いで、ルフィの傷に触れたまま目を閉じた。
 どれくらいそうしていたかはわからないが、自分の手へ重ねられた手に気付く。

「サンジ」

 瞼を上げると、ルフィの真っすぐな瞳と目が合った。真っ黒なのに、微かな灯を吸い込むようにじわりと煌めいている。

「どうかしたか?」

 静かな声。
 昼間の騒がしさと全く違う様相に小さく息を飲んだ。
 
「……ローにさ、感謝してたんだよ」
「トラ男?」
「お前を救ってくれて、ありがとうって」

 ふわりと微笑んだサンジに「そうか」と言ってにししと笑う、その命。
 手の平の下に鼓動が響く。重ねられた手は熱い。
 ルフィが生きていることを実感する度に、ローのことを思い出すだろう。
 だがそれ以上にサンジにとって、ローの存在は既に切り離せないものになっていた。
 
 
 
 
 
 気まぐれとはいえルフィを助けてくれたロー。彼はどうして救う気になったのか。
 これまで見てきた中で、興味のないことには関わろうとしないのを知っている。ましてや敵となる海賊船の船長だ。
 だが医者の本能が彼を動かしたのだろうか。それとも、ルフィに興味があった?
 そうだ、頂上戦争の前、シャボンディのヒューマンショップで邂逅していた。天竜人との一件に巻き込まれる形で、ローはルフィと共闘している。あの時少し楽しそうに見えたのは、気のせいではなかったのかもしれない。
 サンジがローと会ったのも、正確には視認しただけなのだが、ヒューマンショップが初めてだった。乱闘中に視線がぶつかっただけなのに、彼はそれ以降ずっとサンジのことを見ていた。あの一瞬でローはサンジを認識し、興味を持ったというのだろうか。
 初対面に一度目が合っただけで。
 そう考えてハッと何かに気付くと、ビリビリと背筋に電気が走ったような痺れがあった。あそこが初対面だったのは、サンジだけだ。ローはもうずっと、サンジのことを知っている。例えあの時とローが知るこの姿が違っていようとも、彼は同一人物だと分かったのだろう。だからこそサンジを見つめていて目が合い、その後もサンジのことを見つめ続けてきたのではないか。
 二年の時を経て再会し、パンクハザードを出てサニー号に乗り込んでからも。ローはずっとサンジに会いたかったと、そう言った。ずっとというのは、考えていた以上の時間だったのかも知れない。
 ただ、サンジ自身はここ数ヶ月で断片的に、まるでダイジェストのようにローの成長を見てきただけだ。自分が見てきたローの成長過程を思えば、初めて会ってからもう数年は経っている。決して短い時間ではない。例え数ヶ月の間が空こうとも、不定期に現れる不思議な存在が気にならないはずもない。それが成長期、思春期の数年であれば、強い影響を及ぼしてしまうのは当然かも知れなかった。
 そしてはたと、あの時のキスにはやはり意味があったのだと、唐突に自覚してしまった。ローがずっと会いたかったと言ってサンジにしたキスは、そういうことだ。
 やはり干渉してはいけなかったのだ。ローの過去に干渉したことは間違っていた。
 だが、どうすれば良かったのかも今はもう分からない。自分の意志で過去のローの前に現れたわけではなかった。互いに影響し合えるあの場面で、干渉しないことは難しい。
 ならば、過去に繋がるこの夢の存在こそが意味あるものなのだろうか。
 例えば、今ここに眠っているローがいる。夢として見るのは一週間振りくらいだ。だがローの方の時間は、ルフィの手術をしてからどれくらい経っているのだろうか。そんなことも分からない。
 サンジはゆっくりとローに近付いた。ベッドの上で胸に本を伏せ、無防備に瞼を閉じている顔。本を読みながら眠ってしまったようだ。相変わらず目の周りには隈が色濃くあり、不規則な生活をしているのだろうと思わせる。
 こんなローを見るのも初めてだった。
 ベッドに膝を載せ、ローの顔を挟むように両手をつく。サンジの重さは影響しないから、ベッドは撓みもしないしきっと軋む音さえしていない。
 長い時間、そうしてローを見下ろしていた。胸が規則的に上下しているので、薄く開いた唇からはきっと小さな寝息が漏れているだろう。
 少しカサついている唇。こんなもの、しっかり食べてちゃんと寝ていればすぐ良くなるのに。きっとどちらも疎かにしているのだとわかる。
 そんなことを考えながら、ゆっくりと顔を近付けた。
 ローがサンジにしたキスの意味、サンジがローの過去へ関わらなければならない意味、今サンジがローにしようとしていることの意味。
 結局は全部同じこと、ひとつのことなんじゃないかと、ぐるぐる考えていたことがなんとなくふわりと落ち着いたとき、自分の下にいるローの目が開いた。正直、完全に油断していたので驚きに身が震え、夢から覚めてから触れたことに気付いた。

「……あー……やっちまったなぁ……」

 小さくぼやくように言葉を漏らし、がりがりと頭を掻きながら薄暗い甲板へ出る。朝日はまだ水平線の向こうだが、時間的にはいつもより少し早いだけだ。
 船縁に背を預け、煙草に火を点けて煙をその身に沁み込ませる。彷徨わせていた視線の先に、水面がキラリと光った。じわりじわりと陽光が顔を覗かせ、辺りが柔らかい朱の色に染まり始める。
 朝焼けを浴びながら、サンジの胸の内にはローの言葉が重く伸し掛かっていた。

『これは、お前から仕掛けてきたんだからな。あの時の礼だ』

 やっと繋がった。ローが言っていたこと、全てが。
 ここでサンジがしようとしたキスのことだろう。
 確かにローからすればそうかも知れない。だがサンジにとっては、ローからのキスの方が先に仕掛けられたのだ。
 ただ、どっちが先かだなんて、もうどうでもいいような気がしていた。
 サンジは自分の中にある答えに気付いてしまった。





 ここは初めて見る部屋だった。薄暗く、周囲を見回してみると無数の配管が張り巡らされ、所々に取り付けられた計器類の針が忙しく振れている。明かり取りの窓もない、息苦しい程の閉鎖的空間。ローの船は潜水艦だったから、機械室か何かだろうか。
 部屋の隅に何かいる。オレンジ色の頼り無い常夜灯の元、壁に背を預けて座り込んでいる巨体を見つけた。ルフィを運んだ白くまだ。
 それを大きなソファのようにし、全身を預けてローが眠っていた。その顔は先日のうたた寝の時とは全く違っていて、焦燥の色が濃く見て取れる。オレンジ灯に照らされていても、顔色の悪さが在り在りとしていた。
 白くまはローの体を労るように、そっと優しく抱きとめる。だがその表情はとても不安そうだ。船長の心配をしているのだろう。
 だらりと落ちた右手が気になった。サンジの知る限り、死を意味する文字が刻み込まれたのは左の手指だけだった。ローはいつの間にか、右手にもそれを施したらしい。サンジはそこには立ち会えなかったのかと嘆息する。
 ふと、二人の横に無造作に置かれた麻袋が気になった。何が入っているのか分からないが、微かに動いているように見える。動物か何かだろうかと覗き込んでみたが、一瞥しただけではそれが何であるか分からなかった。箱状のものが数えきれない程、びくびくと蠢いている。
 これは、心臓だ。
 ローは七武海になるために海賊の心臓を100個、海軍へ届けたと聞いた。ただの海賊じゃない。船長や幹部クラス、全て賞金首の心臓だ。ここに在るのはおそらく半分くらい、50個程か。
 目的のためとはいえ、ただひたすらに心臓を狩り続ける行為は、きっと彼を苛んでいるのだろう。医者として人の命を救う右手に新たに死を刻み込んで、その手で心臓を抉るのだ。
 それをサンジは見ているしかできない。

 お前の覚悟を、戦いを、ドレスローザで知ったから。

 サンジは眠るローの右手に、自分の右手を重ねた。





 ローに触れ、てっきり目覚めるとばかり思っていたのに、サンジは見慣れた部屋に立っていた。一番多く訪れたローの船長室だ。
 クローゼットの前に立つその後姿に息を飲む。見覚えのある黒のロングコートは、氷と炎のあの島で二人が初めて直接関わった、あの時のもの。
 ローはこれから、パンクハザードへ単身乗り込むのだ。
 どくんと心臓が跳ねた音を聞きつけられたのかと思う程のタイミングで、ローが振り返った。決意を滲ませた、強い瞳。


 これからオレは、お前に再会するんだな。オレとお前の時間が、あそこから始まるんだ。
 お前の戦いの行く末を、オレは知っている。
 でも傷付いたお前を知っているから、だから。


「どうか、無事で」

 そう言わずにいられなかった。
 笑顔で見送るつもりだったのに、思いもかけず涙が零れたのが分かった。
 笑顔を崩したくなくて流れるのに任せていたら、ローが近付いてきた。珍しく戸惑ったような表情がちらりと見えて、可笑しさにふふ、と声を洩らしたが響くのはサンジの耳の中だけ。
 ローの手がゆっくりと顔に近付き、ぴくりと躊躇する。やがて意を決したように親指が、サンジの目許を拭った。

 あれから、夢を見ない。