4.【船医】それを毒とするのもしないのも(約9000字)

2015年04月16日 08:36
チョッパー誕生日2014
ちょっとシリアス目。
 
 
 
 
 
 いざという時にはとても頼もしい存在である、青鼻の船医。
 だが日常に在って彼は年相応、いや、それよりも幼い顔を見せている。だからか、その口をついて出る言葉も直球であることが多い。それは彼の純粋さを表してもいるようで、同じ船に乗るクルーは皆、彼のそんなところも好ましいと感じていた。
 この船のコックであるサンジも、有事に於いての彼の心の強さがとてもきれいだと思っていたし、対するチョッパーもサンジの信念に基づく強さを尊敬していた。
 ただ初対面の頃の彼らは捕食者と被捕食者の色が濃く、チョッパーはサンジを避けている節があった。それでも食事に呼ばれれば姿を見せないわけにはいかず、びくびくと席に着けば温かい湯気と腹の虫を騒がせる匂いに不安は影を潜め、喉を通るその味に満たされる。「たんと食え」と低めの声と共に次々給仕される料理を堪能することに、一生懸命になってしまうのだ。
 ドクトルに教えられたいただきます、ごちそうさまはサンジを笑顔にさせ、食器を下げると「ありがとよ」とお礼まで言われてしまうことにすごくドキドキして、下膳を叩き込んでくれたドクトリーヌにもありがとうと胸の内で言ったりした。
 サンジが作るおやつも大好きで、腹に入ればいいという傾向が強い船長を除き、各人の好みに合わせた味付けで作られていると知った時、チョッパーは素直に聞いたことがある。
 
「みんなに違うもの作るのって、大変じゃないのか?」
 
 サンジは鼻歌を歌いながら、咥えたまま火を点けていない煙草をピコピコと上下させた。口端は上を向いている。
 
「じゃあ、みんなが色んな病気や怪我に遭って治療しなけりゃらない。治療法はみんな同じか?」
「そんな訳ないだろう。それぞれの症状に合った処置や投薬……!」
「ま、そういうこった」
 
 チョッパーの前に置かれたココアはほんの少しだけ温度が下げられていて、軽く息を吹けばすぐに飲むことができる絶妙なものだった。口に入れると甘さが広がる。
 チョッパーの分のおやつはいつも、他のみんなのものより格段に甘い。だがそれは単純に甘さを増やしているだけではないことを、別の機会にチョッパーは知る。甘味料を大量に投入するだけの味付けをサンジは決してしない。
 
「甘く感じる工夫ってモンがあるんだよ」
 
 クルーの食を一手に担うということは、その体についての健康まで手中にあるということだ。料理人としての大いなる責任感は、仲間たちへの一食一食を以って生真面目すぎるほどに表れている。
 チョッパーにはそれが、なんだか自分の中にあるものと似ていると感じていた。だがそれが何であるかは、ぼんやりとしてよく分からなかった。
 それでも、サンジにはしっくりくると思う言葉でよく彼のことをこう言っていた。
 
「サンジは優しいなぁ」
 
 クリクリとした大きな瞳をきらきらと輝かせて、チョッパーはサンジに向かって口にする。
 向けられた当人は初めこそ笑顔で返していたものの、頻繁に掛けられる言葉に居た堪れなくなってくる。ある日耐えきれなくなり、とうとう「やめてくれ」と言ってしまった。チョッパーには何のことなのか分からなかった。
 サンジは、自分のこれはエゴであると言った。優しくした覚えなどない。仲間の、人の食欲を満たしてやるという己の欲求に突き動かされているだけなのだと。誰も幼かった自分のように飢えてはいけないという強迫観念、その反動からくる料理への衝動。それらを、自分自身が満足するためだけに行っているのだから、決して褒められるものではないのだと言う。
 それのどこがいけないのだろう。
 サンジが自分自身のためだけにしていることだとしても、それはみんなのために、一人一人のために、細やかな手が加えられている。一連の行為に、誰かを傷付ける要素などひとつもないのに。
 どうしてサンジはこんなに苦しそうなんだろう。
 チョッパーはこれ以上何も、サンジに言うことができなかった。それは小さな棘となって、彼の心の端っこに知らず食い込んだ。
 
 
 
 
 
 ある島で、サンジとチョッパーは共に市場へと出かけた。
 この日のサンジは下見が主で、チョッパーの方で補充しなければならない薬品や医療器具があり、その荷物持ちを手伝う目的が強かった。上手いこと問屋を見つけられたらそこからの配達を期待できるが、そこは出たとこ勝負だ。
 比較的大きな島でメインストリートにもいくつか薬局はあったが、チョッパーは見向きもせずにどんどん奥へと進んで行く。路地に入り込み、暗がりの中まるで目的地を知っているような足取りだ。
 過去にも一度、二人で出かけた時に同じことがあった。その時は不審に思ってすぐに声をかけたサンジに、チョッパーは青い鼻をヒクつかせながらまっすぐ前を見たまま答えた。「匂いがちがうんだ」と。小綺麗な薬局にはない、変わったものを置いた店の匂いは混沌としている。トナカイの鼻はそれを嗅ぎ分けて見つけ出すのだ。
 そういった店は大体がアングラな雰囲気で、薄暗い店内は雑然としている。古い木戸を押して入ったその店も、以前二人で入ったのと似た空気を感じた。
 所狭しと並ぶ薬なのか雑草なのか木っ端なのかよく分からない品物の数々。ざっと目線を走らせ、爬虫類のような物の干物やら薬品漬けはまだいい。足が多いような、そういう絶対に近寄ってはいけないものがある場所を瞬時に察知し、見ないようにして、サンジは店内をぶらつく。
 チョッパーは店主と何やら話し込んでいる。必要なものを揃えられるかの相談、値段の交渉、問屋の有無。そういった遣り取りがいつの間にかできるようになっていた。
 その方法を教えたのはサンジだ。たまにウソップも一緒になって、実践形式で授業などして。
 雪深い冬の島から世界に出た可愛らしい新たな仲間。彼の知らないことを、彼にとって必要なことを皆でひとつひとつ教えていく日々。勉強熱心な彼はどんどん吸収し、あまりにも素直な様子に揶揄い甲斐もあったりするのだけど。
 八方から愛されることにも、慣れというものが必要なのだと、数年先のロビンが言ったことにチョッパーは大きく頷くことになるが、この時の彼にはまだ戸惑いが大きい。それでも自身の夢のため、仲間を守るためにと新しいことに挑戦していかなくてはならない。その思いは力となって彼を突き動かしていた。
 そんなチョッパーを微笑ましく、羨ましくも思ってサンジは見ていた。自分に足りないものを彼は持っていると、直感で分かっていた。だけどそれはきっと口にできないし、誰にも言うことはないだろう。それが自分の性分なのだからしょうがない。
 サンジはぐるぐると考え込む自身の思考に舌打ちし、チョッパーから視線を外して改めて店内を眺めた。
 元々明るくはない室内の更に暗い奥の方、何やら番号を合わせる方式の錠が掛けられたガラスのケースの中に、見覚えのあるマークのついた小瓶が無数に並んでいた。扉にひたと手を当て、中を覗き込む。
 ひとつひとつに貼られたシールには、自らの船に掲げられているジョリーロジャーと同じドクロのマーク。その下に書かれている小さな文字にそれぞれを区別する違いがあるのだろうが、サンジにはよく分からなかった。
 
「ご入用かね?」
 
 後ろから掛けられた声にぴくりと指先が反応した。振り返るとにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべた背の丸い老人。
 巻いた眉尻を上げて小首を傾げると、老人は相好を崩さずに近づいて来る。
 
「店主を引退した身だがね、こう扱いの面倒な物を管理するくらいのことは出来るのでね」
 
 サンジが自然とガラスケースから身を避けると、老人は錠をくるくると回して鍵を開けた。キィ、と細い音を鳴らして扉が開く。
 
「どんな死をお望みだい?」
 
 あぁ、やはりそういう物か。
 サンジは小瓶と老人を見比べ、そうだなぁ、と僅かだけ思案する。
 
「使った後に、体内に残らない物。苦しまずに逝けたら尚いいな」
「ふむ、なかなか我儘を言いなさるな。残ったら不都合が?」
 
 老人は笑顔を崩さない。おそらく地顔なのだろう。細い目許は垂れ下がっていて、例えばこれが敵ならば油断を誘うだろう。
 
「……毒が残ったら、食えなくなるだろう。肉の塊にしてぇんだよ」
「動物にでも使いなさるか」
「さぁな。生きてるモンに使うんなら一緒だろ?」
 
 唇を歪め不適に笑うサンジを、老人は嘆息しながら見上げた。
 
「まったく……。まぁお前さんみたいなタイプには、御守り代りにいいかもしれんな」
「御守り?」
「まぁ、好きに取るがいいさ」
 
 老人はガラスケースを覗き込んで小瓶を幾つか掻き分け、奥の方から一本を取り出した。他と同じに、ドクロのマークがついている。
 
「ご注文の品だ。使わずに済むことを祈っているよ」
「あぁ、オレもそう思ってる」
 
 老人の手から小瓶を受け取り、空になった掌に代金を載せる。
 サンジは小瓶を摘まむと、薄暗い照明に翳して見た。濃い茶色のガラスの中に、ゆらゆらと揺れる液体。これを使うことがないようにと、今一度自身に言い聞かせて胸ポケットに仕舞い込んだ。 
 
 
 
 
 
 まずはすぐ手に取りたい薬草類をその場で買い、備品や消耗品、嵩張る薬品などは問屋を紹介してもらえた。出港までに届けてもらえるように手配し、二人は宿に向かった。
 
「メシ、どうする?」
「俺、もう少し後でもいいな。薬草の分類やっちゃいたいんだけど、いいか?」
「あぁ。まだ時間早いから、のんびりやってていいぞ」
 
 チョッパーは貰ってきた新聞紙を床に広げると、紙袋いっぱいに入った薬草をひっくり返して山にし、見た目や匂いで独自の選り分けを始めた。
 その様子を横目にしながら椅子を窓際に移動させ、サンジは窓辺に肘を付いて煙草に火を入れる。大きく吸い込んでから、窓の外にゆっくり煙を吐き出した。
 今日明日は料理をすることはない。だが頭の中は市場で見かけた食材が様々な形に姿を変える。遠く建物の間から覗く海を見ながら数種類のソースで味見をしていると、つぶらな瞳がこちらを見ていることに気付いた。
 何となく、何かを思いつめている時の顔だ、と思う。
 
「どした?」
 
 煙草を咥えたまま、視線だけをチョッパーの方へ向ける。
 彼は手に薄い茶色の葉を持ったままサンジの顔を見、ベッドに放り投げたままの黒いジャケットに目を遣り、再びサンジを見た。それだけで彼が何を気にしているのか分かってしまう。
 サンジは口許をにやんと歪め、青い目を眇めた。
 
「何が気になる?」
 
 立ち上がってジャケットへ手を伸ばし、胸ポケットを探って茶色の小瓶を取り出した。ドクロのマークがちらりと視界を掠める。棚引く紫煙の中に翳し、陽の光に透かすようにして軽く振った。密封された瓶からは漏れることのない水音。
 
「サンジは」
「ん?」
 
 漸く口を開いたチョッパーは、それでもまだ躊躇いがちだ。
 声音を明るく保って、サンジは先を促す。
 
「サンジは俺のこと、まだ非常食だと思ってるのか?」
 
 真剣に思い詰めた顔から飛び出した言葉に、サンジは面食らった。そういえば、そんなことを言って追いかけ回していた時期もあった。今やれっきとした仲間であり、一味の優秀な船医だ。非常食だなどと半分冗談で言っていたことに、未だに囚われていたのかと少しだけ申し訳なく思う。
 
「毒が残らないようにして、肉の塊にするんだろう? それって、食うってことだよな」
「まぁ、そうだな」
「……俺、いいぞ。みんなに食われるんだったら、それでもいい」
 
 真っ直ぐに見つめてくる瞳は黒く、艶めいた宝石のようだと思った。
 彼はいつだって真剣だ。
 そして誰よりも優しい。
 可哀想なほどに。
 サンジはチョッパーの前にしゃがみ込み、彼が手にしている葉の上に小瓶を乗せた。茶色の葉と、茶色の小瓶。とてもよく似た色だった。
 
「苦しまずに死ねるそうだ」
「……俺、」
「ただし、使うのはお前にじゃない」
 
 サンジは小瓶を持ち上げ、ドクロに小さくキスをした。
 
「オレ用だ」
 
 口角を上げて笑っているのだろうが、それは酷く冷たい笑顔で、チョッパーはわずか体毛を逆立てた。
 
「いくらオレが一流であろうと、海では予測のつかないことが起こる。ましてやグランドラインだし、そうでなくともつまみ食いされちゃ元も子もない」
 
 身に覚えがあるためか、言葉に詰まってしまう。
 
「それらを全部ひっくるめて、コックは何があろうと飢えさせちゃならねぇんだ。コックである以前に、オレ自身がそれを許せねぇ」
 
 飢えは、狂気だ。体験したからこそわかる。何もないあの岩だらけの小島に、誰一人として連れて行ってはならないのだ。
 それは優しさなんかじゃない。ただのエゴで押しつけだと、サンジ自身は思っていた。みんなに食わせることが、己の心の安寧を漸く保っていられる唯一の方法なんだと。だから、自分の行為に優しさなどないのだと。
 優しいと言われるたびに、身を切られる思いだったなどと、言っても仕方なかった。だからあの時、乱暴に突き放したのだ。
 
「この身一つでみんなを救えるなら、本望だ。オレは、いざとなったら肉の塊になる」
 
 いつもの少しおちゃらけた表情もなく、先ほどの冷たい笑顔もなく、感情をどこかに置いてきたように、サンジはただ真っ直ぐにチョッパーを見て言った。
 以前、自分とサンジが似ていると思った部分は、実は全く別物であるとチョッパーは思い知った。サンジの料理に対する思いは揺るぎない確固たる愛情に見えたし、その根幹にあるのは彼を構成するものの中で多くを占める優しさであると思っていた。
 いや、それは間違っていないだろう。ただそれは、とても大きく歪んでいた。
 この船の上で、きっとルフィしか知らないであろうサンジの昏い部分が、今チョッパーに向かって鋭い牙を剥いている。今はきっと、彼を思いとどまらせることはできないだろう。そんな頑なさが、サンジの全身を覆い尽くして寄せ付けない。
 
「お前医者だから、体の構造よく分かっているだろ? お前がオレを捌いてくれよ。調理だってレシピがあれば大丈夫。薬の調合みたいに分量と、加減さえ間違えなければなんとでもなるんだ。楽に死ねるから、苦しむ姿を見せないで済む」
「……サンジ…それ、本気で言ってるのか」
「あぁ、至極真面目に言ってる」
「俺が、それをすると思ってるのか」
「やるんだ。オレの覚悟を聞いたお前が、やるんだ」
 
 チョッパーは思わず、サンジの手から茶色の小瓶を奪い取っていた。両手に掴み、ふうふぅと鼻息が荒い。眦には小さな雫が載っていた。
 
「俺は、しねぇ」
「するさ。本当に食うものがなくなって、目の前に食える肉があったなら」
「しねぇ!」
「やるんだ! ……やってくれ、頼む」
 
 サンジはチョッパーの両手ごと、小瓶を両手で包み込んだ。そこに額を当て、絞り出すように言葉を紡ぐ。
 
「飢えは、心を狂わせる。人を追い詰め、簡単に傷つけ合う。それは思ってもみない結果を招く。何かあってからじゃ、本当に遅いんだ」
 
 震える声が大きな掌から小さな蹄に伝わり、小瓶の中身をふるふると揺らした。
 
「オレは、誰も飢えさせたくねぇ。地獄なんだ、あそこは。だから、オレを、無駄にしないでくれ」
 
 サンジが抱える闇が垣間見え、チョッパーはひどく冷静になっている自分に気付いた。
 サンジが食わせることに執着することが性であるなら、苦しむ者を前にして目を離すことができなくなるのもまた、自身の医者としての性なのだと思い知る。
 そして、医者として何をすべきなのかも。
 
「わかった」
 
 その声に、サンジの顔がゆっくりと上がった。
 凛とした黒が、揺れる青を射抜く。
 
「それがサンジの揺るがない決心なら、俺も最低限協力できるように努力する」
 
 サンジの顔が驚きに満ちる。まさか同意するとは思ってもみなかったのだ。
 拒絶されても良かった。ただ、吐き出したかっただけだ。
 チョッパーは強くサンジを見つめたまま、青い鼻をピクリと動かした。
 
「ただし、それは本当に最終手段だ。草一本、水一滴、完全に口にするものがなくなったその時に、もう一度意思確認する。そして最終的にこれを使うかどうか、決めるのは俺だ」
「なんだよ、随分とお前都合だな」
「それくらいの条件がないと、俺も許容できないよ。分かってるのか? お前俺に、人間を、仲間を切り刻めって言ってるんだぞ」
「分かってるさ。だけど、それをやってくれるのはお前だけだってことも分かってる」
「どうして?」
「お前が医者だからだ。俺と同じように、クルーの命を預かっているプロだからだ」
 
 耳が、ピーンと立ち上がった。
 
「それは……」
 
 ずるい、と思った。でも、言わなかった。それはサンジが、チョッパーを言いくるめようとしているのが分かっていたから。
 サンジの闇は深い。それは彼自身も分かっていて、今チョッパーに対して理不尽なことを言っているのも自覚しているだろう。
 それでも、譲れない思いがある。今のサンジを形作り支えているものの中に、それはきっと必要なのだろう。ならば、それ以上のもので作り変えていけばいい。
 チョッパー一人では無理であっても、この仲間とならば。大丈夫だ、という確信が、なぜかあるのだ。
 
「コレは、必要になるその時まで、俺が預かっておく。いいな?」
「チョッパー……お前、いい男だな」
「な、なんだよ! 褒めたって何も出ないぞ、コンニャロー!」
 
 相好を崩しくねくねと照れるチョッパーの、その手の中。茶色の小瓶が小さく揺れている。
 思いを吐き出し拒絶されなかったことで、自身の何かが僅かでも変わり始めているなどと、サンジは考えたくもないと乱暴に煙草に火をつけた。
 ドクロの小瓶はチョッパーの手によって大切に保管され、船がサニー号に変わってからは保健室にある薬品棚の、最奥にひっそりと隠されるようになった。
 そして、二年の別離があった。
 
 
 
 
 
 シャボンの島で再会後、船は慌ただしく海底の島へ向けて出航した。
 サンジは保健室へ行き、薬品棚へ手を伸ばす。
 
「そこにはないぞ」
 
 背後からかけられた声に手を止め、振り返るとチョッパーが黒い瞳で見上げていた。彼は小さな体で回転椅子に飛び乗ると、机の真ん中の引き出しをそっと開けた。書類の束の上でころころと転がる茶色の小瓶。ドクロのマークがサンジを見たような気がした。
 チョッパーは瓶を取り出して机の上へ置き、再びサンジを見つめる。
 
「俺も、昨日ここに戻ってから確認したんだ」
 
 小瓶は二年、この場所で持ち主達を待っていた。誰の目に触れることなく。
 
「確認? 何を?」
「ちゃんとここにあるかってことと、もう一つ」
「なんだ」
 
 チョッパーは瓶を手にして紙の封を破り、ガラスの栓を抜いた。
 
「おい、何して……」
 
 サンジの制止より早く、チョッパーは小瓶の中身を呷った。
 
「バ、カ! お前何やって……!」
「大丈夫だよ」
 
 必死の形相で小さな体を抱き上げたサンジは、今にも口の中に指を突っ込んで吐き出させようとするが、当の本人はけろりとしてそれを止める。
 
「チョッパー?」
「大丈夫だから。なぁサンジ、これを見て」
 
 小瓶のドクロマークを向けられる。その下に何か小さく書かれているが、見たことのない文字で意味は分からない。
 
「俺さ、最古の医療が生まれたっていう地域の言葉を学んだんだ。これ、その言葉で書いてある」
「何て」
「ただのみず」
「……はぁ?」
「だから、ただの水。昨日、開封して成分を調べてみたんだ。そうしたら、やっぱりただの水だった。腐ってたけどね。だから入れ替えておいたんだ、新しい水と」
 
 サンジは大きく溜息をつき、力が抜けたように椅子に座り込む。そして抱いたままのチョッパーを両手に抱き直し、力一杯締め上げた。
 
「ちょちょ、ちょっと! 苦、しいってば……」
「テメェ、ふざけんなよ……こっちゃ心臓止まるかと思ったんだ」
「わ、悪かった……けど、謝らないからな!」
「あァ?」
「お前、二年前俺に何言ったのか覚えてないのか?」
 
 ぐ、とサンジが言葉に詰まり、その腕から力が抜けて、チョッパーは漸く息をつく。腕の中から見上げるその顔は、とても決まり悪そうだ。
 覚えがあるからこそ、何も言えない。もしもの時は自分をバラして肉にして食えと、無理矢理約束させたのだから。
 
「まぁ、薬効が残らず楽に死ねるなんて、そんな都合のいい毒は無かったってことだよ」
「……あのジィさんに一杯食わされたってことか?」
「授業料だって。安いもんだったろう?」
 
 煙草を一ヶ月我慢するくらいの金額だ。
 サンジはもう一度、全身の力を抜くように息を吐いた。そうして腕の中の可愛らしい船医を、今度はふわりと優しく囲う。
 自分が持ち込んだ、下らないプライドの塊で殺めてしまったのかと、まるで生きた心地がしなかった。
 
「なぁ、サンジ」
「ん」
「お前にはまだ、この小瓶の中身は必要か?」
 
 ただの水ではなく、肉塊になるための、恐ろしい魔法の水。二年の間、サンジはそのことを考えていた。
 仲間とバラバラになり、安否もわからない。しっかり食っているだろうか、飢えてはいないだろうか。そのことが心配で、心配で仕方なかった。この身を差し出すこともできない現実に打ちのめされ、ただ強くなること、料理の腕を上げることを求めて日々を過ごした。
 今、できることを。
 それはやがて、これまで自身が描いてきた最悪のシナリオを塗り替えていく。飢えさせないための、飢えにさえ打ち勝つような強さを齎す技術を、今この身に取り込んでいるのだと。そう思えるようになっていることに驚くと同時に、幼い頃からサンジを苛んでいた脅迫にも似た焦燥は、次第に薄れていった。
 
「……オレの中に渦巻いていた凶悪なモノが、すごく小さくなった気がする。完全に消えたわけじゃねェけどな」
「うん」
「お前にも悪いことしたと思ってる。けど、あれがなかったら今のオレはないような気がするんだ。お前が、肯定してくれたから」
 
 サンジはもう一度、思いを込めてチョッパーを抱きしめた。
 
「それはもう必要無い。オレはお前らを飢えさせることはねェ。プロとして、それだけの技術と……自信を身につけてきた。下らないモノに頼らねェよ」
「……うん!」
 
 チョッパーが小さな腕を懸命に伸ばして抱き返してくるのが、どうにもくすぐったい。もふもふとした体の感触を楽しみながら「でも」と続ける。
 
「この瓶はとって置こうと思う」
「なんでだ?」
「んー……御守り、みたいなモンかな。忘れないための」
「そっか。じゃあ、また封をしておこう。水を入れて」
「そんでチョッパー、お前が持っててくれ」
「おぅ!」
 
 小さな茶色の小瓶を、改めてチョッパーの手に握らせる。この小さな手は命を救い、生かす手だ。
 そして自分もまた、命を繋いでいく事を生業に選んだのだと、この二年で思い知った。例え心にあの飢餓の島が近付いてきたとしても、もう迷わずにいられる。決して消えることはないけれど、乗り越えていける。
 逞しく優秀な船医とならば。
 この仲間とならば。
 だからサンジは、作り続ける。食わせるために、そこから生まれる喜びのために。
 腕の中の優しい彼が「優しい」と言ってくれた料理を。
 
 
 
end