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2015年04月08日 00:25
 眠っているうちに買い物を済ませ、食事の用意をしていると、匂いにつられてのそりと寝室から起き出して来る。幾分顔色も戻ってきてることにやはり驚きを隠せない。
 初めてこの部屋で目を覚ました時のように、情事の名残りを洗い流してくるように言うと、多少フラつきながらもあまり危なげない足取りで素直にバスルームへ向かった。本当に回復が早い。
 戻ってきた男は、用意していたスウェットに身を包んでいた。その他にも一通りの衣服は用意した。三日三晩密着していたのだ、大体のサイズは分かる。背格好は然程変わらないが、悔しいことに随分と胸板の厚さが違った。
 造血、鉄分吸収促進の食材を使った食事を摂らせながら、そんなことを話す。
 最初の食事以降ろくに口にせずに行為に没頭していた。さすがに腹は空いていたようで、搔き込むように食べていく。空の胃に負担がかからないように軽い物から初め、少しずつ味の濃いものを出していく。
 初め作り過ぎたかと懸念したが、それらはあっという間に胃袋の中へ消えていった。体格がいいので、元々体が常人よりも多めの食事を欲していたのに、それを粗末な食物や酒で誤摩化していたからか、体調を慮った内容の食事が身に沁みたようだ。
 甲斐甲斐しく給仕をしながら、ぽつりぽつりと会話を交わす。体を合わせはしたが、睦みごとを交わす余裕などなく、ひたすらに快感を追う数日だった。初日の説明以降で初めてのまともな会話だ。
 体付きがゴツいのは、よく絡まれてケンカになるので、対抗する為に体を鍛えているうちにこうなったと言っていた。怪我もよくするが、ある程度の治療をして寝ていればすぐよくなったし、こうして出血が多くても数日で貧血など治まったから、これまで特に大袈裟な治療をしたことはなかったという。
 命を落としかけた胸の傷は記憶にない程の小さな頃のもので、自動車事故で負ったもの、その事故で両親を失くし施設で育ったこと、そこでも生来の目つきの悪さが災いしてケンカの絶えない日々だったこと、中学の頃から施設を飛び出し夜の街のオンナのところを点々として生きてきたこと、そういうオンナには大抵ヤクザ者が付いていて、刃傷沙汰のトラブルは初めてではなかったこと。
 今回は何か薬物に手を出していたのか対峙する前から錯乱気味の男が、切れ味の悪そうな果物ナイフで遠慮無しに斬り付けてきたのだ。傍に居たオンナを庇ったら避けるタイミングを失くした。自分にとってどうでもいい相手ではあったが、食事と暖かな寝床を与えてくれた恩はあった。だが本能の赴くままにその場を逃げてきたから、その後オンナがどうなったかは分からない。
 施設を飛び出したのは、ここでもオンナ絡みのトラブルが絶えなかったから。まだ毛も生え揃わぬような子供に、女性職員が手を出した。強制的に関係を持たされ、初めこそ覚えたてのセックスに夢中になったが、そのことをネタに更に続く交わりに嫌気が差して施設を出たのに、そこから先の生きる手段は体を使ったものだった。
 それでも相手は自分で選べるし、オンナを悦ばせてやれば衣食住には困らない。たまに男にも拾われたが、容姿や雰囲気が幸いして無理矢理突っ込むようなヤツには当たらなかった。
 そんなことを聞けば応えてくれる程度、言葉少なに話してくれた。
 驚いたことに、あんなにヤり尽くしたのに、目覚めてからまたその日のうちに盛ってきた。翌日も、また翌日も。本当に毎日抜かないとダメらしい。
 実際には一日の時間感覚さえも暗い部屋の中ではとうに狂っていて、眠って、起きて、メシを食わせて、セックスをして、眠って、ということを繰り返している。
 体を繋げるとどうしても血を吸いたくなる。いかに回復力が高くとも、毎日では貧血の改善が追いつかない。一応の抵抗はしてみるものの、自身も快楽には抗えない。だから大抵は後ろから抱き込まれて貫かれた。
 たまに「やっぱり顔が見てぇ」と正面から突かれるが、ヤツも段々と慣れてきたもので、噛み付きにくいような体位を見つけ出し追い込むことに集中する。そうなるともう、意識を手放してしまうような激しさに翻弄され、喉の渇きに耐えながら次の快感を待ち受けるしかなくなる。
 ゾロが自分の中で爆ぜ、叩き付けるように吐き出す白い熱。これも、人間から齎される精だ。女性の愛液を味わっていたように、男の体液も体は浅ましく吸収する。
 搾り取るように蠢く様が気持ちいいとヤツが言った。それがなんだか、嬉しいと感じるようになった。
 恍惚とした時間の中で、身も心も充足したこんな日々はいつ以来だろうと、不意に考える。片足の料理人の姿がすぐに浮かび、自分は大概あのジジィに心酔しているのだなと自嘲した。
 あれは最初で最後の、無償の愛だった。
 自分の何が彼にそこまでの思いを抱かせたのかは分からないが、彼は常に与えてくれた。
 料理をする、何かをする楽しみ、喜び。人と過ごす温もり。飢えを満たしてくれる慈しみ。
 奪うことしかできない自分を愛してくれたのだと、今ならはっきりと分かる。彼が教えてくれた料理は、今一人の男を飢えから守っている。
 料理を美味いと残さず平らげ、この体さえも美味い美味いと喰う男。
 自分も与えることができると実感した途端、料理人には伝えきれない程の感謝を、男には溢れんばかりの情を感じるようになった。
 ただの食物で家畜だ、すぐに死んでしまうイキモノだと自分に言い聞かせるが、心の有り様は自制が効かない。このまま喰い続ければ確実に命を縮めていく。ならば手放すかと考えるが、覚えてしまった温もりも熱もそれを許さない。
 元々体温などなくて等しい体は、レディと触れ合う時には調整することができた。相手が不審に思わない程度の人肌に。この男にはそんなことをする必要はなかったのに、高められると勝手に体温が上がった。その変化を男も楽しんでいる節があったが、熱が冷めると急激に冷たくなる体を、抱き込んで温めようとするその行為がくすぐったく、切ない。
 実際男の腕の中は温かくて、然程睡眠の必要がないはずの体は男とともによく眠った。
 永い刻を生きる中での、人間が命尽きるまでの戯れのような時間は一瞬だ。瞬き程の間、男の命に寄り添ってみるのもいいかも知れない。心の流れに逆らわず、欲の赴くままに男を抱え込み、慈しみながら喰ってみよう。
 その先に何が自分の中に芽生えるか、それが更に先の自分にどんな影響を与えるのか。
 初めての感情の行方を追ってみようと、胸の内で静かに嗤った。
 
 
 
 
 
*****
 
 
 
 
 
 
 サンジが、一緒に買い物に行こうと言い出した。
 部屋から出られないのではないかと聞くと言葉の綾のようなもので、要するに離れられない、逃げ出すことができない呪なのだという。共に行動したり、例え一人でも逃げ出す気がなければ案外自由に出歩けるのだと、今更なことをツラっとした顔で言った。
 だが本当に今更で、外で何かしたいと思うことはとうになくなっていたし、一人で出掛けたいとか、況してやここから逃げようなんて考えもしなかった。
 美味いメシと、抱いていたい体がある。何よりも、ぽっかりと空いていた心の隙間を埋めていくような日々に、どこへ行くでもなくもうここが自分の居場所なのだと疑いようがなかった。
 それでもサンジが楽しそうに言うものだから、よく二人で出歩くようになった。殆どは夜中のスーパーへ食材の買い出しで、何が食べたいかと聞かれ答えて、それに見合ったものを見繕うのを付いて回り荷物を持ってやる。たまに少し早い時間に出掛け、薄暗い照明の衣料品店で服を調達する。ヤツは自分のものもそこそこに、衣服に興味のない自分に取っ替え引っ替え服を合わせて見繕うのを楽しんでいた。
 金髪に青い眼なんてただでさえ目立つ容姿なのに、出歩いても周囲が全くこちらに目を向けないのを訝しんでいると、目くらましを使っているのだと教えてくれた。店で会計する時など直に接触する場合は、済んだ後にほんの少しだけ記憶を弄るのだという。
 そんな面倒なことをしなくても、周りから見えていないのなら勝手に持って行けばいいと言うと、だからお前は社会不適合者なんだと呆れられた。万引き窃盗と同じことで、それをすると店の被害となり関わる人間に害が及ぶ。不必要な混乱はいつか自分の首を絞めかねないと。
 ならばそれらを得る為の金はどこから出ているのだと問えば、人には言えない金を持っている輩なんてこの世にはごまんといる、と口端を歪めてにやんと笑った。

「それなりに、この世界を楽しんでいるんだよ」

 タバコをふかしながら、悪戯っ子のように楽しそうだった。
 自分が眠っている間にサンジが一人で出掛けるときは、大抵蝙蝠か猫の姿になってベランダから出て行く。高層マンションの最上階で、そこから夜中に飛び出す小さな黒い影に気付くものはない。どこへ行っているのかと問えば、ただの散歩だと言った。世の中の動きを少しでも感じておくのは、生きる為の知恵なのだそうだ。

「そんな散歩の途中で、お前を拾ったんだよ」

 そうだ、あの時、黒猫が鳴いていた。

「なぁ、猫になってくれねぇか」

 そう言うとサンジは一度きょとんとしたものの、にっこりと笑ってすぐにタバコを始末した。喉を反らせると体のカタチを変え、あっという間に黒い艶やかな毛並みの猫になる。軽い足取りで膝の上へ飛び乗ると、何度か足踏みをして位置を確かめてから、ころりと丸くなって落ち着いた。
 恐る恐る手を出し、小さな頭をゆっくりと撫でる。毛並みに沿って手を滑らせていると、くいと顎を上げて喉を曝してきた。指を二本入れてこりこりと交互に動かしてやれば目を細め、ごろごろと喉を鳴らす。
 猫になった男の眼は、髪の色を映したような金色だった。それがなんだか小さな月のようで、二つの月でじっと見つめてくる静かな時間が好きだ。
 施設にいた頃、子猫を拾ったことがあった。こんなにキレイな毛並みではなく、捨てられて薄汚れた野良の雉トラ。学校給食の残りのパンをやると、みぃみぃと小さな声を上げて美味そうに食べていた。勿論施設で飼えないのは分かっているから、誰にも気付かれないように河原の橋の下で一緒に遊んだ。猫はすぐに大人になり、橋の周囲を縄張りにして出歩くようになったが、自分が行くとどこからかすっと現れてパンを寄越せと鳴いた。
 夏の終わりの台風でその河川が増水し、猫が涼んでいた橋の裏までも濁流が入り込み、上流から流れてきた巨木に橋脚が砕け、橋は流された。しっかりしたコンクリート作りの大きな橋で、誰もが崩れるなど考えもしていなかったが、古いもので耐久工事に取り掛かる寸前の出来事だった。
 嵐が去ってから猫の元へ行こうにも、増水した川と崩れた橋の付近は危険だからと近寄ることができず、その近所を縄張りにしていたはずだからと探して回った。名前を決めていなかったから「おーい」としか呼びかけることができず、それでも声を聞きつけてまた駆け寄って来てくれるのではないかと期待したが、猫を見かけることはなかった。それ以来、猫は愚かどんな動物を見かけても手を出そうとは思わなかった。
 出せなかった、また失うことが恐ろしくて。
 だから、猫の姿でベランダから出て行くのを見かけた時は胸が苦しくなるし、するりと体を滑り込ませて帰ってきたときは心底ホッとする。この猫はきっといなくならない、ここが居場所だ。
 膝の上で眠る猫はとても温かく、その温もりに眠気を誘われる。人の姿をした男の肌は通常死人のようにひんやりとしているのに、猫になると途端に体温が上がるのは何故だろう。体を繋げて昂る熱とはまた違う。
 事後に火照った体を冷ますように、温度を失っていく白い肢体を抱えるのもいいが、この命の鼓動と似た熱がとても心地良くて、ベッドで眠るときも時々こうして猫の姿になってもらうようになった。
 記憶の奥底にあった母親の作る味噌汁の匂い、孤独を救ってくれた小さな猫との戯れ、縋れば包み込むように与えられる情。幼い頃から順に感じていくはずだった、心を築き上げていく優しい時間。
 取り戻すように、サンジは少しずつ埋めてくれた。
 自分はこんなにも与えられるばかりだ。血を吸わせることは契約で、その代償は不自由のない生活。十分すぎる程だ。それ以上に心を満たしてくれるこの現状に歯痒さを覚える。自分は、何か返すことができているのだろうか。
 そう思った時、自分の思考にハッとした。誰かに何かを返す、何かをしてあげたいと考えたことが初めてだった。
 だが自分は何も持っていない。この身一つで男に拾われ、家畜となった。ならば家畜らしく、この身を差し出すのみだ。
 生への本能から度を超えた吸血行為をさせまいと牙を回避するようになっていたが、男も体を繋げる快感に大分慣れたのか、行為中に噛み付くことも少なくなった。以前程の酷い貧血も起こさずに済むようになっている。なにより、血を抜かれながらの行為にぐったりして起きられない自分に、甲斐甲斐しく造血メニューを用意する男の嬉しそうな様は、ぼんやりとした意識の中でも見ていて可愛らしいと思った。家畜の世話をする感覚でもなんでもいい。あの男が喜ぶのなら、いくらでも血なんか抜けばいい。返せるものはこれしかないのだから。
 あっという間に吸い尽くしてしまえばいい。
 満足して欲しい。

「おれがお前の糧になるのなら、本望だ」

 目が覚めて、腕の中に囲っていた黒猫の温もりが消えた広いベッドの中、少し身震いして自分の体を抱き締めた。