8.緑の虎(約2300字)

2015年04月07日 11:50
なんか、突然降りてきた緑の虎、というワードが離れなくて。
そのうち狐バージョンも書いてみたい。
 





「へぇ、緑の虎か。珍しいな」

 見世物小屋の裏手にある、大きな鉄檻の前。
 見慣れない男が、檻から少し離れた所に積んである小道具の酒樽に腰掛けながら、小屋の主人に声を掛けた。通常は立ち入り禁止であるこの場所にどうやって入り込んだのかと訝しく思うが、男の姿形を見て僅かに警戒を解く。
 黒いスーツに包まれた肢体はスラリと細く、組んでいる脚は持て余しているかのように長い。何より目を引く金色の髪はほんの少し毛先に癖を見せているが、さらさらとしながら陽の光を返している。その前髪に片眼が隠れてしまっているが、露になっている隻眼は宝石のように透き通った青だ。口許に咥えたタバコからはゆったりと紫煙が立ち昇っている。
 この辺りでは見ない容姿は、常から人目を引くであろう。これまで人の噂に上らないのが不思議だった。
 だがこんな見目珍しい者がここにいるということは、小屋のスカウトが上手いこと引っ張ってきたのかも知れない。

「そうだろう? これは今朝仕入れてきたんだ」

 主人は得意そうに顎を上げて言った。

「ってことは、まだショーには出てねぇのか?」
「ああ、初出しはもう少し先だ。これから仕込まにゃならねぇ」

 ふぅーん、と男は話を聞いて納得したような声を洩らした。暫く虎の方を見ていたが、ニヤリと口許を歪ませると軽い調子で話し出す。

「なぁ、オヤジ。こいつをオレにくれよ」
「馬鹿を言うな。コイツにはこれからたんまりと稼いでもらわにゃならねぇんだ。端金じゃ譲れねぇよ」

 主人はとんでもないというように男に声を荒げる。
 その喚く様を眺めながら、男の青い眼がすっと細められた。

「勘違いするな。オレはくれと言ったんだ。鐚一文払う気はねぇよ」
「何を言ってやがる。何だっててめぇみてえなガキに金蔓をやらなきゃならねぇんだ。大体てめぇは、スカウトされてうちに来……」
「だってよ、コイツ、オレを喰いたがってる……」

 主人の言葉を遮り、というよりもはなから聞いていなかったように、虎の方を見ながらうっとりと声を漏らした。
 その様のえも言われぬ妖艶さに、主人は言葉を失う。
 金色の男は短くなったタバコを飛ばして酒樽から軽く飛び降りると、檻の傍らで足を止め、鈍色の大きな南京錠にふわりと触れた。がちんと硬い音がして、太い掛け金が跳ね上がる。男は重量のあるそれを易々と外して地面に放り、呆気にとられる小屋の主人の前で虎の檻に入り込んでいった。

「あ、おい! ソイツはまだ何も仕込んでな……」

 調教前の、野生のそれだというのだろうか。だから、危険だと。
 ウロウロと檻の中をうろついていた虎が、男に近寄る。
 主人はこの後に起こる惨事が脳裏に浮かび、思わず顔を背けた。
 それを横目で見ながら、男は嘲笑を鼻から漏らす。
 虎が、男に飛びかかった。

「……ってぇな。加減しやがれ」

 押し倒された男は後ろ頭を強かに打ちつけ、腹立ち紛れに伸し掛かった虎の腹に靴先をめり込ませる。だがそれが効いた様子はなく、下にある男の顔をべろりと大きな舌で舐め上げた。ぬるりとした感触と、ケモノ臭い息がかかる。
 男は尚もべろべろと舐め回す虎の口に両の親指を突っ込み、黒く縁取られたような口角をぐいっと引っ張り、なんとか顔から引き剥がした。虎の唇は思ったよりもよく伸び、若干横に広がった顔は少し間抜けだ。

「こんな面倒なとこで盛ンじゃねぇよ。オラ、とっとと帰るぞ。ナミさん達が船でお待ちだ」

 そう言って太い鼻に齧り付いてやれば虎は喉の奥で低く唸り、男の上からのそりと体を避けた。立ち上がってスーツの埃をはたき落とす男に、虎は甘えたように頭を擦り付ける。耳の後ろを強く撫で付けてやると、丸みを帯びた耳介がピクピクと忙しなく動いた。
 その様を嬉しそうに見ていた男は、笑顔のままその耳を力を込めて引っ張り上げた。虎は思わず牙を剥くが、食いつこうという気はないらしい。男は笑顔を崩さず、よく見ると額に青筋を立てて目を細めている。

「迷子になったかと思ったら、なんでこんなチンケなとこに取っ捕まってやがる。たまには自力で帰って来いよな」

 それと、とポケットに仕舞い込んだ硬いものに布の外から触れながら、ぐいぐいと虎の耳を引っ張りながら檻の外に出た。
 小屋の主人が腰を抜かし、ざりざりと後退っていく。
 そんなことにはお構い無しに、男と虎は窮屈な場所から解放されたというのに、未だに耳を引っ張り引っ張られている。

「外で勝手に酒飲むなっつったろうが。ピアス外れ易くなるんだから、って、うぉ」

 話の途中で虎は頭を振って耳を掴んだ手を払い除け、そのままの勢いで男の腹に頭を潜らせてひょいと持ち上げた。男は驚きはしたもののくるりと体を翻し、ふわりと虎の背に跨がる。

「まったく、やることがいちいち乱暴なんだよ、テメェは」

 呆れたように虎の頭を平手で軽く叩くが、勿論何の効果もない。
 男は乱れた金色の髪を搔き上げ、タバコを取り出し美味そうに吸い上げる。地べたに尻をつけたままの主人を虎の上から一瞥し、ゆっくりと口角を上げて艶笑した。

「悪ィな、オヤジ。コイツ、オレのなんだわ」

 男の言葉に、虎の口角がぴくりと上がった。気がした。
 緑色のしなやかな体躯が重力など感じさせないような軽さで、積み上げられて壁のようになった木箱を物音無く駆け上がっていく。見下ろすと、口を開けて惚けている主人と目が合う。
 もう一度微笑いかけ、片手の指先をひらひらさせて男は別れを告げた。
 緑の虎が高く飛び上がり、男の口許から伸びる紫煙が木箱の壁の向こうに消える。
 残された小屋の主人は夢でも見ていたのかと頭を振るが、そこには扉が開いたままの堅牢な鉄檻と、落ちたままの鈍色の南京錠が転がっている。
 その元には男の履いていた革靴の跡と、大きな虎の足跡が、少し湿った土に残っていた。



end