1(約3900字)

2015年04月08日 00:21
 饐えた匂いのするゴミ溜めから、極上の芳香が流れてきた。
 黒猫は足音を殺して近付く。
 打ち捨てられ四肢を投げ出した体は、力を失くしピクリとも動かない。ひらりとその胸元に飛び乗ると、そこはほんの僅かに上下を繰り返していた。芳しい香りの元に鼻先を寄せると、すん、と一息吸い込む。
 とろりと甘い、躍動する生命の匂い。
 黒猫は切り裂かれた男の左眼に舌を這わせ、嬉しそうに、にゃあ、と鳴いた。





*****





 ゆっくり瞼を上げるが、どうにも覚束無い。
 視界と、皮膚感覚に違和感。
 薄暗い、引き攣れ、頭痛、沈んで行く。
 頭が重い、体が重い、手足の先に痺れ。
 回る、ぐるぐると。
 視界が、脳が、掻き混ぜられて、溶けていく。
 瞼を閉じるが、完全な闇にはならない。
 瞼の裏にチカチカと瞬く無数の星は、直前までの視界の明るさだ。
 止まない、光の洪水。
 熱い、溶ける、ガンガンと、頭痛、重い、すべてが。

「お、眼ェ覚ましたか」

 軽い調子の声に、自身を苛んでいた負の感覚が僅かに和らいだ気がした。だが、もう一度瞼を上げるまでの力がない。この現状を確認する術がない。

「どうした。傷が痛むか?」

 声だけだからなのか、何となく嘲笑しているような雰囲気が分かった。
 声の主の気配が、ゆっくり近付いてくる。自分の脇に体重がかかり、ぎしりとそこが音をたてた。この感覚は、おそらくベッドのスプリングだろう。
 気配が、真上に。

「契約をしないか」

 耳許に、軽く息を吹きかけるように低い声が鼓膜を撫で上げる。艶のある、思考を溶かす声だ。

「今お前を苛んでいる苦痛を取り除き、衣食住を与えてやろう。だから……」

 声が一旦離れ、左の顔面を熱くぬめる何かで撫で上げられた。この感触を、知っているような気がする。
 また少しだけ、和らいだ。
 もう一度、瞼を上げてみる。ゆるゆると開けて行く視界の中に、眩い光が降り注ぐのを堪える。
 光の中に、夜の海が、ひとつ。

「なぁ、社会のクズ。オレの家畜になれよ」

 キラキラとした男は、深い青の眼で射抜くように見下ろしてきた。薄い唇が弧を描き、隙間から赤い舌が姿を表す。近付き、先程と同じ場所を、べろりと舐め上げられた。
 その舌で上唇をなぞると、色素の薄いそこに口紅のように色が載った。
 ぞくりと騒ぐ背筋。

「お前が得るのは快楽だけだ」

 ああ、それならいいかと、溶けかけた思考が流れていく。
 何より、目の前の男がきれいだったから。なんだかもう、それだけで色んなことに満足してしまったような気分だ。

「契約を結ぶなら、名乗れ」

 ここがどこで、この男が何者で、自分がどうなっていて、この先どうなるのか。すべてがどうでもいい。今この瞬間が、なんだかとても心地良い。

「……ロロノア…ゾロ……」
「契約成立だ」

 男がクッと喉の奥で笑った声が聞こえ、そこから意識は深く沈んで途切れた。
 
 
 
 
 
*****
 
 
 
 
 
 温かい匂いの中で目が覚めた。
 とても懐かしい、もう消えかけていた記憶の欠片。これにまつわる光景など思い出すこともできないのに、匂いだけは胸の奥に滲みて、どうしてかじわりと涙が浮かんだ。
 僅か軋む上体を起こすと、右の頬が線を引くように濡れる。片側ばかりがはらはらと涙を流し、零れ落ちた雫はタオルケットを掴む手の甲に当たっては弾け、タオル地に吸い込まれて行った。
 薄暗さの中でその様をただ見つめていると、ガチャリと音がして扉が開き、ここは何処かの部屋の中で自分は大きなベッドに居たのだと、気付く。新たに続く空間から覗き込んだのは、暗い眠りの淵に落ちる直前に見たキラキラと、深い海の青だ。右は長い前髪に隠されていてひとつきりなのが勿体ない。
 目が合い、少し驚いたように瞠目し、ふわりと眇めた。

「起きたか。まずはシャワー浴びてゴミ溜めの匂い落として来い。臭くてかなわねぇ」

 見たことのない巻いた眉頭を僅かに上げて、申し訳程度にたくわえた髭を載せた口が、見た目に反して乱暴な言葉を放つ。
 促されるまま立ち上がると、何も身に付けず全裸だった。ゴミの汚れと血塗れだったから剝いで捨てたという。
 そのままバスルームへ放り込まれ熱いシャワーを頭から浴びると、体からじんわりと現実が沁み込んでくるようだ。顔を上げ、目の前の鏡を見据える。偏った視界はまだ頭の中が眠っているものと思っていたが、どうやら閉じたままの左眼の仕業だったらしい。
 自然と手が上がり、眼の上に走る大きな一本の傷をなぞった。滲むように甦る昨夜の記憶。
そうだ、斬り付けられたのだった。切れ味の悪そうな、チンケな果物ナイフで。かなり深い傷だったはずだ。見てもいないから分からないが、おそらく眼球は割れて使い物にならなくなっているだろう。
 女の悲鳴が耳に刺さって不快だと思ったのは一瞬で、本能はその場から逃げることを選んだ。前後左右もわからないくらいにぐらぐらと頭の中が揺れていたのは、出血に因るものと激痛からだろう。自分の流す血の匂いに噎せ返り、比較的柔らかそうなそこに倒れ込んだのは我ながら生き汚いと思う。ゴミの詰められた袋が幾重にも重なった場所は、痺れ始めた四肢を投げ出して全身を預けるのに最適だった。
 ただ、そのままゴミと一緒になって処理されるのもいい、とも思った。放っておけば、翌朝には冷たい死体になれるだろう。
 こんなにまでなって、この先も同じようなことを繰り返して、どうして生きて行かなければならないのか。迫りくる甘美な睡魔に身を任せる刹那、猫の声を聞いた気がした。
 傷に触れていた指を、閉じたままの瞼に宛てて押し上げる。接着剤で貼付けたかのように、瞼はぴったりと閉じて動かなかった。
 昨夜の猫の声から今朝、今この時までの間に、何かもうひとつの記憶があったはずだ。キラキラは覚えている。あの眩い男と、何か交わしたような気がする。だが酷く曖昧だ。
 しばらくの間シャワーに打たれたまま考え込んだが、靄がかかったように霞んでいる。こうしていても仕方ないと、思考を止めて言われたままにその身を清めた。
 用意されていたバスローブに袖を通し、先程感じた懐かしい匂いの方へ歩を進めると、そこは随分と暗くだだっ広いリビングだった。そんな中でぼんやりと判別が付けられる中央のローテーブルを囲うように、大きな黒革のソファが並んでいる。

「おう、あがったか。こっちだこっち」

 声のする方へ視線を向けると、カウンターキッチンの前のダイニングテーブルに、何やら料理が並んでいた。中央には銀細工のような燭台が蝋燭三本を立て、オレンジの灯を揺らめかせている。
 キラキラの男は忙しなく料理を運び続け、その合間にテーブルに着くことを勧めた。

「随分暗いな。まだ夜か?」
「あ? とっくに昼過ぎたぞ。暗いのはカーテン引いてるからだろ」
「なんで蝋燭」
「オレはなくてもいいんだが、これくらいの灯がないとお前が不便だろう? 人工灯は肌に合わねぇしな」

 よく見ると咥え煙草で皿を持ち歩いている。棚引く紫煙は、時折灯に載る程度で掻き消えてしまう。
 そう言えば先程目覚めた部屋もここまでではないが薄暗く、明かり取りのないバスルームはさすがに照明を点けたが、廊下もどこもかしこも全体的に陽が射すことのない暗さだった。

「腹減ってるだろ? 取り敢えずメシにしようぜ」

 テーブルに並ぶ食事に男の分は含まれていない。自分の前だけに用意された品に、すぐに手をつけることができなかった。
 その様子を見て、キラキラの男は煙草を灰皿に押し付けながら小さく笑う。

「気にしないで食え。オレは必要ないんだ」
「もう食ったのか?」
「いや、食事の必要がないんだ。昨日、お前から少しだけ貰ったしな。まあいいだろ、冷めないうちに食ってくれよ」

 訝し気に眉根を寄せるが、それよりも正直者の腹の虫が盛大に騒いだので、遠慮せずに頂くことにした。
 最初に、ずっと記憶を揺さぶっていた根源に手を伸ばす。懐かしさに再び涙が零れそうになる、味噌汁の匂い。一口含み、シジミの味が口中に広がるのをゆっくり感じた。飲み込むと、食道を通って胃の中まで満たしてくれるのが分かる。
 そうすると急に食欲に火が着き、白米を搔き込みながら紅鮭の切り身、出汁巻きタマゴ、ひじき煮を次々と胃に収めていった。

「結構な食欲だな。足りるか?」
「ああ。最近まともに食ってなかったから、これぐらいが丁度いい」
「そういう不健康な顔色してたからな。どうせ酒と肴でどうにかするタイプだろ?」
「これまで不都合なかったからな」

 苦笑しながら差し出された緑茶を啜ると、それも美味くて身に滲みた。
 温かいお茶なんて、いつ振りだろう。

「何か、食えないものとかあるか? あと好物とか。なんでも作ってやるよ」
「器用なんだな」
「好きなんだよ、食わせてやるのが」
「こういうあっさりしたものもいいし、肉とか濃い味も好きだ。何でも食う、嫌いなものは特に無ェ」
「ふぅん。それじゃあ、三食おやつ昼寝付きを満喫してくれ」
「おやつ? 甘いモンは食わねぇ。それと、その三食昼寝付きってやつだが。昨日の記憶が曖昧なんだ。おれはお前と何を話したんだ?」

 思い出したように、指先で目の上に走る傷を辿る。

「コレ、関係してるだろ。昨日死ぬかと思った傷がぴったりと塞がって、痛みもないなんておかしいだろう?」
「冷静なんだな」
「現状把握を瞬時にできなけりゃ生きて来れなかったからな」
「そうか。……お前、ファンタジーは、好きか?」
「……?」
「まぁいい、ゆっくり話そうぜ。時間はたっぷりあるんだ」

 そう言ってキラキラの男は燭台を持ち上げ、リビングのソファへと移動する。
 湯呑みに残ったお茶をぐいと呷ってテーブルに置き、その後へ続いた。