1.楽園(約10400字)

2015年04月07日 16:05

 馴染んだ煙草の箱を胸ポケットに突っ込んで、我が家とも言えるレストランを出た時と同じ、背にひょいと担げる小さな荷物だけ。
 あの時は、楽園に行けるのだと本気で信じていた。仲間と共に旅するその先で、目の前に現れるのだと。
 小さな噂は尋ねれば耳に入った。海に深く関わる者なら大抵は知っている、奇跡の海の話。だがそれを信じるかどうかは人それぞれで、結局はそこに辿り着いた者が現れなければ夢物語なのだ。
 なのに、噂は途切れることがない。

 この海域で見るはずのない魚が上がった。
 潮の変わり目がおかしい。
 七色の波がたっていた。

 小さな噂に振り回され、もう幾度項垂れたことか。

 奇跡の海は回遊する。

 やがてそんな噂を聞き付け、サンジは心を決めた。

「船を降りる」

 正面から告げられた船長は、いつになく表情が堅い。海賊王となった今でも、普段やっていることは変わらずバカ騒ぎを起こしているのに、こんな時はどこに隠し持っていたのかと言いたくなるほどの緊張感を醸し出す。
 そう、緊張しているのだ、この剛毅な男が。

「……見つけたらすぐに知らせてくれ。そこでサンジのメシが食いてぇ」

 夢を叶えるまで、決して戻らないだろうことを分かっているから。だから、これが精一杯の下船許可。
 仲間の夢を阻むことは絶対にしてはいけない。
 けれど、それを捻じ曲げそうになってまでサンジを手放したくないと思う心の有り様に、ルフィ自身も戸惑っているのだ。
 サンジは「もちろんだ」と笑い、それと、と続けた。

「アイツ、連れてってもいいか?」

 ルフィは先ほどの強張った表情が嘘のように柔らかく、当然だというように頷いた。それだけでなんのことを言っているのか分かってしまうほどに、ルフィだけでなく同じ船に乗る仲間皆の中で彼らは対を成している。
 二人が同じ思いを抱いているのなら、袂を別つ必要などないのだ。
 その晩、二人の旅立ちを祝っての宴は笑いと涙に濡れて、盛大に行われた。
 もちろんサンジの腕によりをかけた料理で。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 ログが溜まったこの島へ、サンジが船から降りる。その後に続き、ゾロが。二人とも小さな荷物だけで、とても身軽だ。
 岸から離れていくサニー号と手を振り合う。大きな声で名を呼ぶ船長の声を耳に焼き付け、ほんの少し感傷的になった。
 だが不思議なことに、一切涙が出ない。以前の自分なら、仲間との別れに胸がじくじくと痛んでいただろうにと思う。
 きっと、再び会えるという確信めいたものがあるせいだろう。それは同時に、求める夢が幻のものではないという自信にもなる。どうしてこんなにも前向きな自分で居られるのだろうかと考えたが、サンジはすぐにそれを止めた。
 なんだっていい。きっとこれは、心強い味方のおかげだろうから。
 自分と一緒に、同じ思いを抱いて旅することを選んでくれた男に、感謝のキスを一つ贈る。
 世界一の称号を勝ち取ったその時、傍でそれを見届けていたサンジへゾロがそうしたように。
 荷物を担ぎ直し、二人はゆっくりと歩き出した。
 船を乗り継ぎながら、奇跡の海の事を訪ね歩く日々。ほとんど空振りだけれど、以前のような焦燥はない。仲間みんなを振り回す申し訳なさを感じることなく、思いのまま行きたいように進むことができるから。
 一緒にいる男は気楽なもので、たまに突然現れる挑戦者をあしらいながら、何も言わずについてくる。たまに姿を消すこともあるけれど。
 それでも少し待てば戻ってくるようになったし、このままいなくなってしまうという不安もいつの頃からかなくなった。ゾロはサンジの、サンジはゾロの、その傍を離れることはないと心がそう言っている。
 たくさん苦しんできた。
 別離の二年の直前、死者の島でルフィを、仲間を、そして目の前のサンジを庇って一人で死と直面したゾロを、憎みさえした。それでも、命があることに、再びこうして隣り合って並ぶことができる今に感謝している。
 あの時があったから、もっと強くなろうと思えた。もっと優しくなろうと思えた。もっともっと、想いを伝えていこうと思えた。
 あの時感じた絶望までも、今はこんなにも愛しい。全てが今の自分を、自分たちを作り上げているのだ。両手いっぱいに抱えて旅をするのがとても楽しい。
 手応えのなかった島を、大きな船に乗って出る。
 目の前に真っ赤な夕日がゾロとサンジを照らしながら沈んでいく。すぐに背後から夜の闇が迫ってくる。何百回、何千回と、サニーの上で見た景色だ。
 月のない夜は真っ黒な海を渡っていく。それさえも日常で、海は常に共に在った。
 この海のどこかに、求める楽園がある。
 一人で行こうとしていたのだ、本当は。それを見透かされ、阿呆と罵られた。今更離れる意味があるのかと、琥珀の隻眼が呆れていた。
 大事な時間を削るような真似はする必要がない。そんなことを言ってきつく抱きしめられた時は、ホッとしたのと気恥ずかしいのとで妙な気分だった。
 だから、二人で旅に出た。
 先の見えない夜の海を見ながら少し前のことを思い出して、口にしていた煙草を深く吸い込む。
 隣からかちゃりと、刀の擦れる音が聞こえた。
 隣には、いつだってゾロがいた。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 降り立った島の漁師から、近頃海の様子がおかしいという話を聞いた。どこがどうと言うことを上手く伝えられないが、海に生きる者としての違和感なのだと。この島の者は、奇跡の海のことは知らないと言っていた。
 感じるところがあったサンジは少しの間、この島に留まることにした。海の見える場所に部屋を借り、情報を集め、船を借りて自ら海に出たりもした。
 ここにいるはずのない魚。
 読めない潮目。
 輝く波。
 他にも知り得る限りの条件を擦り合わせ、海を見つめる日々。
 港へ通う道すがら、そこらをうろつく猫に懐かれるようになった。特に何かを与えたわけではない。猫はどうやらサンジを気に入ったようだった。
 港で海を眺めるサンジと、その隣に寝転んで眠るゾロの間に陣取り、一緒に海の方を見ている。黒い艶のある毛並みは野良っぽくはなかったが、特定の飼い主がいるようにも見えない。
 共に過ごす時間が増えると、いつしか帰る場所も一緒になった。黒猫は何食わぬ顔をしてサンジの後を追い、二人が根城にする部屋に入り込む。満更でもないサンジの顔を見て、ゾロは何も言わなかった。
 サンジは黒猫をレディと呼んで可愛がった。もちろん雌だからだ。
 空気の読める彼女は、二人が睦み事を始める時にはいつの間にか姿を消し、寝入っているとするりとベッドに入り込んで、朝驚くことも多々あった。
 ゾロと一緒に昼寝することも多く、彼と一匹が同時に目を覚ました時の、琥珀の隻眼と、金の双眸が一斉に見上げてくる様がサンジはとても好きだ。綺麗な宝石が自分のものであるように思える。そんなことを言えば「てめぇのモンだろが」と天然タラシを発揮する男に苦笑しながら、黒猫を抱き上げてその背を撫でる。黒猫は気持ちよさそうに、サンジの手を楽しんでいた。
 ある日の海は、サンジだけでなく、ゾロにも分かるほどの変化を見せた。地元の漁師に頼み、沖に船を出してもらう。漁師も必死になって追ったが、追いつくことはできなかった。
 ちらりと見えた、懐かしい魚たち。あれは東と北で見覚えがある。
 そして煌めく波。陽の光を反射していたにしても、あんなに明るく輝くことはない。
 間違いなく、奇跡の海はサンジの目の前を掠めていったのだ。届かなかったが、それはある。
 高揚した思いで隣の男を見ると、珍しくこちらも昂ぶっているようだった。自分の夢を、野望を見届けてくれたサンジの夢が実在することに、ゾロも嬉しさを抑えきれなかった。
 金の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて抱き締め、「行こうな」と一言、震える声で囁いた。
 サンジは声もなく、ただ頷いていた。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 魚たちが向かった方へ、二人は再び旅立つ。翌日にはもう部屋を引き払い、また小さな荷物だけ持ち出すのだ。
 昨夜気を利かせた黒猫は、朝になっても戻らなかった。
 どの道、二人はこの島を後にする。彼女は元々この港にいた猫なのだ。連れて行く訳にはいかない。
 それでも、最後の別れをしたかったと思うのはかなりの情が移ってしまったからだろう。後ろ髪引かれる思いでサンジは港へ向かい、次の島へ向かう客船を目指した。
 町にも港にも、黒猫の面影が残る。
 これでもう終わりにしようと、サンジは咥えていた煙草を強く吸った。そうすると聞こえてくる高い声。
 振り返れば、そこに黒猫がちょこんと座っていた。

「レディ! 見送りに来てくれたのか?」

 黒猫はサンジの足に体を擦り付ける。金の目で見上げ、前足を伸ばした。
 それは抱き上げて欲しい時の合図。

「……ダメだよ、レディ。オレたちはもう、行かなきゃならない」

 サンジは手を差し出すことができないでいた。ここで抱き上げてしまえば、温もりを手放せなくなってしまう。
 躊躇っているサンジの少し後ろにいたゾロが、嘆息しながら少し屈んだ。

「ほら、来い」

 軽く差し出した片手に、黒猫は駆け寄って飛び乗った。その勢いのまま持ち上げ、黒猫はゾロの肩に収まってしまう。

「何も考える必要無ェじゃねぇか。コイツ、一緒に行きたがってるだろ」

 一処に留まることはない、海の上で過ごす方が多い旅だ。危険も多々ある。そこに黒猫を連れ出すことに不安は尽きない。

「いいじゃねぇか、コイツが選んだんだ。おれたちと……お前と居ることを、コイツ自身が」

 ゾロが距離を詰めると、黒猫はサンジへ首を伸ばしてその頬を一舐めした。

「……そっか。じゃあ、一緒に行くか? オレたちの目指す楽園に。かわいいオレのレディ、お手をどうぞ」

 差し出した手に前足を掛け、サンジの方へ飛び移る。
 そのしなやかな体を抱き締め、サンジは船へ乗り込み、ゾロが後に続いた。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 そこから何年も、海を追って旅をした。
 いつも海はサンジの指先を逃げていく。けれど、決して消えてなくなりはしないのだ。まるで追ってくるのを楽しんでいるようでもあり、どうしても諦めきれない。
 隣の男は黙って付いてくる。サンジが海を追い続けるのを当然だと言うように。そして黒猫もまた。
 時折、海賊王の船とは連絡を取り合った。ニュースクーをまとめるカモメ便に、短い手紙を届けてもらう。
 互いの近況を伝えるだけのものではあったが、その中に航海士や考古学者の、奇跡の海に関する情報や見解なども含まれていたり。そっと、船医から馴染みのハンドクリームが添えられていたり。大きな荷物になるからと控えられた、他の仲間からの心遣いもしっかり伝わってくる。
 そして最後に必ず書かれている一言。

 サンジ、メシ

 普段筆を取ることのない船長が綴る文字からは、大きな声が聞こえてくるようだった。彼らも奇跡の海を一緒に追ってくれているのだと、心が強くなる瞬間だ。だから止まらずに居られる。
 サンジは海を追った。
 黒猫はそんなサンジの傍にいるのが好きだった。

「お、珍しいな、アイツ散歩にでも行ったか」

 ある日姿の見えない黒猫に、ゾロが声をあげたことがあった。サンジはソファに片足を組んで身を沈めており、新聞を広げている。
 ゾロはサンジの背後から寄ると、ソファ越しその首筋に顔を埋める。

「なんだよ、ヤキモチでも妬いてたのか?」

 サンジの傍にはいつも黒猫がいた。そのことに嫉妬した覚えはない。しっかりと空気を読むヤツではあったし。
 だがやはり、四六時中くっついてあまつさえサンジからも愛されているというのは、多少なりと面白くなかったのかもしれない。
 くすくす笑うサンジの組んだ足元に目が行くと、金色の双眸と目が合った。にぁ、と小さく声が聞こえる。
 なんのことはない、真っ黒なスーツに擬態して、黒猫はやはりサンジの傍にいた。

「隠れるとは姑息な真似しやがって」
「レディはずっとここにいたよ。なぁ?」

 黒猫はもう一度可愛らしい声を上げた。
 延ばしたゾロの片手に脇の下を掬い上げられ、黒猫は大人しく持ち上げられる。そうして軽々と肩に担がれると、揃ってサンジを見下ろした。
 愛しい宝石が、変わらず自分の傍にある幸福。
 夢にはまだ手が届かないけれど、大切な物はこの腕の中にある。だから、夢を諦めずにいられるのだ。
 サンジは頭上の恋人たちに両手を伸ばした。




   ◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 いつしか黒猫は眠る時間が多くなった。二人の間で丸くなったり、サンジが抱いてその背をゾロが抱きしめて眠ったり。

 三つの体はいつも寄り添って生きていた。
 この島でも奇跡の海の片鱗は見えるものの、決定的な何かを掴めないでいた。
 そろそろ次を目指した方がいいのだろうか。だが、近頃体力が落ちてきているように見える黒猫を連れての船旅は不安が大きい。
 これまで尾を追うように海を渡ってきた。それをここにきて逃してしまうのかと逡巡するが、大切な黒猫の命には替えられない。
 サンジはこの島で、黒猫の最期を看取る決心をした。
 そのことを直接話しはしなかったが、ゾロもサンジの想いを汲み取った。なにより、ゾロにとっても最早黒猫は自身の一部であったから。
 眠る黒猫に寄り添う日々を送ることを選んだサンジは、近かった海が姿を消して行くことを考えないようにした。
 いや、考える間もなく、心は黒猫と共に在った。
 やがて黒猫が眠り続けたまま、数日が経った。心配のあまりサンジまで何も口にしないことをゾロは咎めたが、サンジには受け入れる余裕がなかった。
 黒猫を間にして、囲うように二人体を丸くして向かい合って眠る日々。
 ある夜、ゾロは小さな声で起こされた。見ると黒猫が、懸命にサンジの袖口を咥え引いている。
 サンジも疲弊し、それくらいでは目を覚ますことができないのだ。

「おい、起きろ」

 ゾロは急いでサンジを揺すり起こす。

「アイツが呼んでる」

 ゾロが気付いたことで、黒猫はベッドを降りていた。
 ん、と呻いた声を聞いて、黒猫は器用にドアノブに飛びつき回して、するりと部屋を出て行く。

「急げ、見失うぞ」
「……ん? 何が?」

 寝惚け眼のサンジに一言「ねこ」と言うと、弾かれたように起き上がる。ふらつく体を支えて連れ出してやれば、黒猫は外で二人を待っていた。
 姿を確認すると前を進んでいく。時折振り返っては、再び先導を始めた。その道筋は小さな森を抜け、人気の無い海岸に出るものだ。
 海へ、誘っているのだろうか。
 黒猫も何も食べることなく眠り続けていたはずなのに、その足取りはしっかりとして危なげなくただひたすら、サンジとゾロを導いていた。
 やがて目の前に現れる夜の黒い海。の、はずだった。
 沖の方でぼんやりと海が輝いている。
 一瞬見とれた二人に、黒猫のか細い声が先を促す。そこには一艘の小舟があり、どうやら乗れと言っているようだった。海へ引き出し、二人乗り込む。
 黒猫は浜で背筋を伸ばして座ったまま、二人を見送るつもりだ。

「レディ、一緒に見に行こう?」

 差し出したサンジの手に擦り寄ることなく、黒猫は凛と金の目を輝かせた。

「……分かった、ここで待ってて。必ず戻ってくるから」

 ゾロが沖の方へ漕ぎ出す。サンジは黒猫が小さくなって行くのを見つめ、その姿が夜の闇に飲まれてから漸く、体の向きを変えた。
 途端に飛び込んで来る光の洪水。
 光る海の中へ進んで行くと、小舟はその中心へ辿り着いた。
 身を乗り出し、海の中を覗き込む。底まで見通せそうな透明度でありながら、キラキラと金色に煌めく、夜の海。
 その中を自在に行き来する魚たち。見たことのあるもの、全く知らないもの。
 所在する海域も深度も異なる者たちが一堂に介し、黄金の海を泳ぎ回る様は圧巻の一言だった。

「これが……オールブルー?」

 世界中の海の魚が集まる奇跡の海。その中に今、サンジたちは居た。
 真っ黒な海の中にぽっかりと現れた金色は、まるで黒猫の目のようだ。

「あ、そうだ、レディ!」

 ここまで自分達を導いてくれた黒猫のことを、一瞬でも忘れていた自分に舌を打つ。ゾロもすぐに浜へ引き返した。
 遠く離れていく黄金の海。だが今度は逃げはしない。そこに在る。
 舟が浅瀬に掛かる前に、サンジは海へ飛び降りた。水に足を取られながらも、早く早くと気が急いて体が前へ進む。
 びしょびしょに濡れた体が砂浜に辿り着いたその時にはもう、黒猫はその身を横たえていた。濡れた手で小さな体を抱き上げる。まだ微かに温もりがあるのに、命の鼓動は聞こえなかった。

「レディ?」

 呼びかけても可愛らしい声は返ってこない。
 黒猫は、サンジたちを海へ案内するのを最後の使命としていたようだった。それがなんとなく分かっていたのに、彼女を置いて傍を離れたことが悔やまれる。

「……ご、めん……最後まで、一緒に……いるつもりだった、のに……」
「分かってんだろ。コイツが何を全うしたかったのか」

 座り込んで砂だらけになっているサンジの頭を、ゾロはくしゃりと掻き回した。そうされると堪えていたものが決壊する。
 サンジは静かに涙を流しながら、消え入りそうな声で「ありがとう」と腕の中に呟いた。
 ゾロは森の入り口へ向かい、一番大きな木を物色してその根元を刀の小尻で掘り始めた。がつがつと砂混じりの柔らかい土が掘り返される音。ざざ、と穏やかに行き来する波の音。聞こえてくるのはそれだけ。
 やがて砂を踏みしめる足音が目の前に来た時、サンジはゆっくりと立ち上がった。ゾロの後について歩く体は、なんだかふわふわとして現実味がない。
 それでも、これからしなければならないことを思うと涙は止まらなかった。
 太い根の隙間を上手く掘り、それは黒猫の体を横たえるのに十分な大きさと深さの穴だった。ゾロを見遣ると衣服も顔も泥だらけだ。
 サンジはその様を見て小さく笑い、黒猫の鼻先にキスを落とす。泥だらけの手を腰あたりで強く拭って、ゾロも大きな手で動かない黒猫の頭を包み、親指で耳の付け根をぐりぐりと揉み込んだ。こうしてやると気持ちよさそうに小さな頭をこすりつけてきたのだ。何度やってももう動くことはない小さな頭から、ゾロも漸く手を離す。
 二人とも名残惜しい思いを押し切って、ゾロが掘った穴にしなやかな体を納めた。脇に避けられた土を少しずつ被せていく。
 サンジはその間ずっと、小さな声で名を呼び続けた。黒猫の姿が見えなくなり、土を全て盛り、ぎゅうと押し固める。
 木は赤い実をつけるが、人間が食べられるものではない。森の動物が、小鳥たちが食し、種を運んでいく。運ばれた先で芽吹き、命を育んでいく。
 そういったものの一部になるように、木に取り込まれて新たな命となるように、その根元に埋めたのだ。墓標はいらない。彼女が眠るこの大きな木そのものが碑であるのだから。
 ゾロは泥だらけの手でサンジを抱きしめた。サンジも同様の手をその背に回し、汚れた上衣に顔を埋めた。
 海は金色に輝いていた。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 カモメ便に手紙を託すと、すぐに返事が来た。割と近い海域を航行していたようで、獅子の船は数週間の後にこの島まで来るという。
 船長は喜びのあまり筆を取れなかったと、ナミが最後に付け加えていた。これは腕によりをかけて海獣肉も用意しなければならない。
 あの日から奇跡の海は、サンジが必要とすれば目の前に現れた。夜、金色に輝きながら世界中の魚を連れてくる。初めて出会う魚を中心に獲り、その味を確認しながらメニューを考える日々。
 充実はしている。
 だが胸にぽっかりと空いた穴を持て余し、それはゾロも同様のようで、二人で隙間を埋めるように抱き合った。朝目が覚めても、懐に艶めく毛並みがいない事実を思い知りながら。
 やがて懐かしい船がサンジ達の元にやってきた。それが海賊王の船であることは、世の常識となって久しい。海賊王とそのクルーが、一般人に危害加えることをよしとしないことも。だから比較的穏やかに滞在することができた。
 元より、数年この地に腰を下ろしているサンジと常に傍にいる男が世の大剣豪であり、海賊王の船にいたことも島民はとうに気付いていた。だが決して乱暴に騒ぎ立てるようなことをしない二人と、サンジの人当たりの良さに皆は見て見ぬ振りをしていた。またそうしてくれていることに二人も気付いていて、感謝しながら日々を過ごしていたのだ。
 こうして海賊王が立ち寄ったという稀代の出来事に僅か色めき立つ彼らのためにも、サンジはこの小さな島を立ち去る決心を固めていた。
 奇跡の海へこの手で触れることができた。そしてもう見失うことないだろうという確信もある。数年ぶりに顔を合わせる懐かしい仲間の乗る船へ戻るのだ。何よりも船長がそれを望んでいる。
 ぐるぐるとゴムの手足で巻きつかれ、久し振りに命の危険を感じるほどに抱き締められた。ゾロも一緒に。
 ただ心残りは、小さな相棒のこと。彼女をこの島に残していくことだけが。
 久し振りの宴は不思議な雰囲気に包まれた。
 味わったことのない食材から作られる料理に興奮し、それぞれの懐かしい故郷の味に感動し、何より、待望のサンジの手による料理であることが皆の胸を打った。
 笑い、涙し、また船長の大騒ぎにつられ笑う。
 サンジも大量の料理に給仕にと奔走し、心地よい疲れを感じながら宴の輪に混じった。

「で、どこにあるんだ? お前のオールブルー」

 一息ついて煙草を口にしたサンジに、ルフィはずいと顔を寄せた。
 仲間たちは奇跡の海を見てはいない。だが齎された料理の数々にその存在を疑いようもない。

「俺も見てみてぇ!」

 言っていることと脈絡なく巻きついてくるその手足をなんとか躱しながら、どう説明したものかとサンジは逡巡する。
 そこに助け舟を出したのはロビンだった。

「それはきっと無理ね」

 腹の底からブーイングをあげたのはルフィだけではなかった。ウソップやチョッパーまで同じように口先を尖らせて「えー!」と騒々しいことこの上ない。
 もういい大人の年齢であるというのに、その姿に思わず吹き出してしまった。眉尻を下げながら手招きするロビンの元へ行くと、小さな本を手渡された。

「ここへ来る途中の島で見つけたの。こんなに詳しく書いているのに、この存在が今まで世に出なかったのが不思議なくらい」

 それは古い手記のようなものだった。
 奇跡の海、オールブルーについての。

「あなたからの連絡を受けて、すぐにこの本に出会えた。きっと、必要な人のところへ行くように現れるのかも知れないわね」

 誰が書いたのか、どのような経緯で書かれたのか、詳細は全くわからない。
 淡々と記述されている中に、知りたかったことがいくつか垣間見えた。

 奇跡の海は求める者の前にのみ現れる
 求める者の前には案内人が現れる
 案内人のめがねに叶えば奇跡の海に出会える
 案内人は使命を果たすと命を全うする
 奇跡の海に出会えた者は生涯それを手にすることが出来る

 あぁやっぱり、とサンジは思った。
 手掛かりを得たのは黒猫に出会ってからだった。黒猫と共に過ごし、愛し、そうして黒猫に導かれた。
 自分も、彼女に愛されていたと自負していいのだろうか。

「案内人は海の化身、という記述もあったわよ」

 海に愛された料理人。なんて贅沢な人生だろうと思う。それでも消えることの無い喪失感は、一生ついて回るのだろうか。
 サンジは本をロビンに返し、ゴメンと小さく零して甲板へ出て行った。

「何か、思い当たることがあったんですね」

 控えていたバイオリンを再び奏で始め、ブルックは静かに言った。
 ルフィは相変わらず料理に夢中で、少し沈んでしまった空気の中他の者の皿にまで手を延ばし始め、それを見咎めた皆がワイワイと制止し始める。
 喧騒に紛れ、ゾロが席を立って出て行ったことに皆が気付かない振りをした。

「まったくあんたってば、気が利くんだか利かないんだか」
「行ったんだろ? なら大丈夫だ」

 ナミが呆れた声を出せば、肉の塊を頬張ったままルフィが軽く言う。
 二人が共に過ごした時間の密度は、二人にしか分からない。

「大丈夫だ。知ってるだろ? 弱い男じゃないんだ、二人とも」

 ニッといつもの顔で笑われれば、もう何も言えなくなる。
 二人の間のことは分からないが、二人のことを誰よりも分かっているのもまた、この海賊王なのだ。勿論仲間みんなのことも。
 残った者たちは、せっかくのサンジの料理を楽しむことにした。



   ◇◆◇◆◇◆◇



 サンジは船首で黒い海を見ていた。その横にゾロが並ぶ。

「オレが必要とすれば、海が来てくれるんだ」

 煙草を持った手を口許に宛てながら、くぐもった声で呟く。
 やがて沖が底から明るくなり始め、きらきらと金色に輝いた。

「レディが命を掛けてオレに残してくれたものを、心から喜べない自分がいて……それが彼女にも申し訳ないと思うんだけど……」
「相変わらず考え過ぎなんだよ、てめぇは」

 項垂れた金色の頭を鷲掴み、ぐいと上げて輝く海を見るように促す。

「案内人は海の化身なんだろ? 見てみろよ。ありゃあ、見慣れた猫と一緒じゃねぇか。真っ黒で、金色の目で、お前が呼びかけりゃ喜んでついて来ただろうが」

 虹色の魚が跳ねる。
 飛沫が星屑のようだ。

「誇れ。あれは一生てめぇのモンだ」

 奇跡の海が目の前にある。あれが自分のものであると、唯一同じものを見ることができる男が言う。
 光の洪水がチカチカと目の前で瞬いて、じわりと熱いものが湧き上がった。逆らわず、流れるに任せる。

「……オレさ、お前で良かったと思うよ。隣にいるのが」
「おう」
「もう言わねぇけど」
「なんでだ」
「……恥ずかしいから」

 目を合わせずにそんなことを言う。
 ゾロは掴んでいた頭をそのまま引き寄せ、濡れて塩っぱくなった唇に噛み付く。その首に、サンジは両手を回した。




 海に愛された男は、生涯の楽園を手に入れた。だから、また旅をすることができる。
 船に乗って世界中を巡っても、奇跡の海はいつでも傍に在るのだから。
 海に嫌われた海賊王の為に、海に愛された料理人が再び腕を揮う。
 その傍には世界一の剣豪が。

 船は碧い海の中に、奇跡の海を人知れず引き連れていく。
 クルーそれぞれの楽園を目指しながら。
 どこまでも自由に。