Side ユーレイ 1(約7100字)

2015年04月09日 11:01
 海賊同盟を結んだハートの海賊団船長トラファルガー・ローとは、ドレスローザでそれを解消し航路を別にした。
 ローは大きな傷を負い、自船のクルーと合流してから治療があるのだと早々に海へ潜って行ってしまった。サンジはその場に居合わせることができず、結局碌な話もできずに別れてしまった。
 そう、どうしてあんなことをしたのか。あのキスの真意はなんだったのか、聞きそびれたのだ。
 ずっと前から会いたかったのだと言われたけれど、サンジの中での一番古いローの記憶は二年前のシャボンディ諸島くらいだ。それだってちらりと一瞬目が合っただけで会話さえしていない。けれど、ずっと見られていた。
 あれ以来、彼はずっとサンジを見ていた。
 ただ、会いたかったからといって、勝手にキスしていい理由にはならない。





 ふと気付くと、何もない部屋の中にいた。家具ひとつ見当たらず、殺風景な空間に扉と丸い小さな窓。
 自分はいつの間にこんな所に来てしまったのかと思案するが、思い当たることは何もない。
 一先ずドアのノブに手をかけてみるがうんともすんとも言わない。仕方なしに丸窓へ寄って外を見てみるが、よく知った青い海が広がるばかりだった。海の上ということは、これは船の中の一部屋であると考えていいのだろうか。停泊中なのか、揺れは殆ど感じない。
 さて、こうなるとこの現状に対して色々と分析をしなくてはいけない。ドアが開かないということはこの部屋に閉じ込められているのだろうか。この部屋にはサンジ一人であるが、仲間は無事か。捕らえられたのが自分だけなら、どうとでも脱出の機会を作ることができる。そもそも、いつの間に捕まったのか。この部屋で意識が覚醒する前後に全く覚えがなく、ただ立ち尽くしていた。
 だが今はそれよりも、ここを出て仲間のところへ戻るのが先決だ。
 部屋を改めて見回してみてもやはり何もないのは変わらないが、妙に小奇麗な印象を受ける。いや、小奇麗というよりは真新しいと言った方がいいか。ということは、この船自体も進水して間もないのかも知れない。
 とにかくここで黙っていても埒が明かないので、やはり扉を蹴り飛ばしてみるかと振り返ったところで心臓が竦み上がった。何の反応も示さなかった扉が開いていただけではなく、サンジと扉との丁度中間辺りに人が立っていたのだ。
 何の音も気配もなかった、と思ったところでふと気付く。音など初めからなかったことに。微かに感じると思っていた船の揺れも実際には全くなく、窓の外の海を見てここが船だと思ったから揺れていると錯覚したらしく、船を揺らす波の音もなければ空気の流れる音も、よくよく思い返してみれば自身の足音や着用しているスーツの衣擦れの音さえ全く耳に届いていない。
 耳をやられたかと一瞬不安になるが、そういうものではないと本能が告げる。ここはそういうところだと、無意識で理解して受け入れる自分がいる。
 そうなると次に意識が向かうのは目の前に現れた人物だ。どうにも見覚えのある男で、次に会ったら文句を言ってやろうと思っていたヤツ、トラファルガー・ローだ。だがなんとなくサンジが知っているローとは様相が違い、その違和感に首を傾げた。
 ローはその場に立ったままジッとこちらを見ているが、動く様子がないので近付いてみることにする。その際も動作に関する物音は一切聞こえてこなかった。
 近付くにつれて違和感の正体が分かってきたが、彼の目の前に立ったことでそれは顕著なものとなる。自分の目線の下に、ローがいるということだった。確か彼はサンジよりも10センチ程も背が高かったはずだ。ほんの少し見上げると、パールグレイの眼と視線が合ったことを思い出す。
 なのに今目の前にいるローは目線の位置が低い。低いのは身長だけではなく、なんだか年齢も幼いような気がする。感情の乏しい大人びた表情を貼付けてはいるが、現在21歳のサンジよりも下、十代の瑞々しさが肌に見て取れる。だが目の下の隈は相変わらずで健康そうに見えないところは変わらなかった。
 それから被っているファー状のもふもふとした帽子に視線が行く。この帽子も知っているものとは形が違う。サンジが知っているのは鍔が前方についたキャスケット型だが、これは、と無意識に手が伸びて帽子に触れたかと思った瞬間。

「……あ……?」

 部屋の様子が暗転し、閉じた覚えのない瞼を持ち上げると、飛び込んできたのは見覚えのある薄暗い男部屋のボンクの底だった。下段が自身の寝床で、仰向けになると見える上段のいつもの木目。
 あぁ夢だったんだ、と納得する。夢の中にいる間はそこが夢だと思ったことはなく、様々な不可解な現象も受け入れるようにできていて、目が覚めてからその滅茶苦茶な内容に違和感を覚えるのが常だ。
 たった今見た夢は過去のおかしな夢よりは幾分か整然としていて、珍しいことに内容をはっきりと覚えている。大抵大まかなところか、目覚める直前の部分くらいしか思い出せなかったりするのだが、今日のものは初めから終わりまで、自分が感じたこと考えたこと見たもの、それらを詳細に記憶していた。もしかして夢ではなかったのかとも思うが、だったら何なのだろうかいう疑問には答えようがない。
 何より何故今、夢の中に出て来るのだ、あの男は。いや、こうして腹立たしく思っているからこそわざわざ出てきたのかも知れないのだが、それにしてもレディじゃあるまいし夢にまで見たいとはさらさら思わない。
 しかし夢の中でも感じた違和感を改めて考えてみる。サンジが知っているのは自分よりも年上の、ある程度落ち着き払った26歳のローだ。夢の中の彼はそれよりもずっと幼く、何と言っても目線が下というのが驚きだった。おそらく17,8歳といったところだろうか。二年前シャボンディ諸島のヒューマンショップで出会したときだって、単純計算で24歳だ。今と大きな変わりはないように思う。会話することはなくちらりとその姿を見ただけだったが、情報としてその存在を確認したに過ぎない。あくまでサンジはその程度の関わりだ。
 だがドレスローザ上陸前のローに言ったように、あの場で彼が執拗に自分を見ていたことには気付いていた。だから視線が一瞬だけ合ったことも知っている。しかしそれを問いただすような余裕はあの時の騒動中にはなくて、直後も仲間がバラバラになって、マリンフォードでの頂上戦争があって、それから二年の地獄の修行があって。
 正直パンクハザードで再会するまで、ローのことなどすっかり頭から抜け落ちていた。再会したと言っても出会い頭に仲間と精神を入れ替えられるなんて(それがナミだったから)嬉しい出来事があったりもしたが、とにかくサニー号で一息つくまでは全くもって初対面の域を出ない相手だったのだ。
 そんなヤツに「ずっと会いたかった」と言われ、キスをされ、「お前から仕掛けてきた」と言われても全く身に覚えがないし、「あの時の礼だ」とは更に訳が分からず、終いには夢に見るなんてどれだけ掻き乱されればいいのか。しかも見たことのない若い頃の姿なんて、想像でしかないのに。
 この先よっぽどのことがなければそうそう顔を合わせる相手ではないのだから、さっさと忘れてしまうに限ると分かっていても、男が男にするキスに何の意味もないとは思えず、それが揶揄いの色など全くない真摯な瞳と言葉で彩られたものである以上、どうしても忘れるどころか無視もできずにぐるぐると考え込んでしまうしかないのが、腹立たしくて腹立たしくて仕方がなかった。
 
 
 
 
 
 あれ以来、同じような夢を見るようになった。毎日ではないが、長く空いたときでも一週間ほど。
 幼いローに会う夢だ。幼いと言っても十代後半程度だから、現在の原型はほぼ出来上がっている。いつも難しい顔をして口数が少なく、何を考えているのかあまり表情からは読み取れなかった。
 サンジが夢の中で気が付くと、必ずローが近くにいた。初めの頃はお互いの存在を警戒し探り探りで関わっていたが、次第にこの夢の中での法則らしきものが分かってきた。
 初めて夢に見た時の部屋は何もない空間だったのだが、それがしっかりとした生活空間の様相を呈しローの色に染まる。それらに触れることはできるが動かせないとか、こちらの話すことや立てた音が聞こえていないようだとか、同様にローから発せられる声や物音も聞こえてこないこととか。
 ローの方も色々思うところがあったらしく、能力を使って何かを確かめようとしたことがあった。突然サンジの周りに覚えのある薄い青膜の結界を張った時には、何をしでかすのかと大いに焦った。一番身に覚えがあるのが精神の入れ替えで、あの時は幸運にもナミとの入れ替わりだったが、今ここにいるのは何を考えているか分からないローだけだ。
 聞こえもしない抗議をしているうちに背後のベッドが浮いたり、それがロー自身と位置を入れ替わったりしたのを見て、何かに満足したような表情をした。自身の能力が効くかどうか、試していたらしい。そのことには途中からサンジも気付いていた。
 部屋の中のものを動かすことができない、ローの能力が影響しない。後にローの仲間の前に出現することになるが、その際も彼らには自分の存在が知られることは無かったし、触れることも触れられることもなかった。透けてすり抜けてしまうのは、どうやらサンジの体の方だ。
 この夢の中でサンジは、まるでユーレイのような存在なのではないかと自分のことを思っていた。ただ不思議なのは、ローは初めからサンジのことが見えていて、話すことはできずともコミュニケーションのようなものをとることができ、そして触れると夢から覚めてしまうことだった。瞬きにも満たない時間であるけれど、接触できるのだ。
 夢の中でサンジは何にも影響を与えることができないのに、ローとだけは意味のある関わりができる。それが何だか孤独に浮かぶ小さな方舟のようで、たかが夢であるのにひどく縋り付きたい衝動に駆られた。
 会話ができないもどかしさに、一度ローが筆談を提案したことがあった。とはいってもサンジの方はペンを持つこともできないので、ローの書くことに表情や動作で応えるしか無い。サンジは多少なりと読唇術に近いことができ、ローのことも何かを話した時には注視して探っていたが、あまりにも口許が動かないおそらくボソボソとした喋り方に何も読み取ることができなかった。
 また覇気もローの能力同様影響させることができないらしく、見聞色を使っても何も分かることは無かった。だからこれは新たな関わり方ができるのではと結構な期待があったのだが、結果としては無駄に終わった。ミミズがのたうったような酷い字に、サンジは悪いとは思いつつも噴き出して笑ってしまい、気分を害したローがそれ以降文字を見せることはなくなってしまった。
 だが意思疎通のできるコミュニケーションが無くとも、何となく通じるものはあったし、元々が口数の多くないローだ。別段問題はないように思われた。先に述べたように彼の仲間の前に出たときは、自分自身が完全に別次元の存在ではあると自覚させられたものの、ローが橋渡しをしてくれて関わることができるし、簡単な身振り手振りである程度のことは伝わる。
 厨房で冷蔵庫を覗いたときも、醤油に乾燥昆布を入れるということを教えてくれたのは彼なのに、それをしていなかったことに多少の引っ掛かりを覚えつつ、ジェスチャーで意図を汲んでくれた。
 通じるのだからこれでもいいではないかと思ったところで夢から覚め、暖かな陽射しに目を細める。覚束ない意識を整え、ここがサニー号の芝生甲板であること思い出し、自分のすぐ横でおやつおやつと煩い船長を確認した。
 あぁ、起こされたのか。というか、いつの間に眠っていたのだろう。昼寝なんて久しぶりだった。
 いつものおやつの時間よりも多少遅れてしまったのを申し訳なく思い、騒ぐ船長を無碍には出来ずに早急に用意に取り掛かる。そうして手を動かしながら夢の中で感じた引っ掛かりを思い出して、何が気になったのかと考え出した。
 醤油と乾燥昆布。そのことを教えてくれたローは、船で愛用していると言っていた。
 それを実行していなかった夢の中のローたち。
 ローは、教えてくれたのはユーレイだと言っていなかったか? 船に出現するおそらく料理上手のユーレイが、料理に関することを教えてくれたと。
それはつまり、サンジのことではないのか。
 あの夢の中にあって、サンジは自らをユーレイのような存在だと位置付けていた。それは夢の中のローにとっても同様で、互いにサンジのことをユーレイだと認識している。
 だがこれはサンジの夢であって、ここで起きたことを現在のローが知っているという不自然さに思わず手が止まった。
 まさか、と思うと心臓が異様に跳ねる。これまで夢としては矛盾が多かった。
 いや、元々夢自体が矛盾の塊なのに、ここまで整然としていたことがとんでもなく不自然だったのだ。

 サンジの見る夢はローの過去である。

 そう考えると色々なことがしっくりと収まった。ドレスローザ直前のローが「ずっと前から会いたかった」と言ったこと。彼がこんなに若い時分から、サンジとローは顔を合わせていたのだから。互いに視認できる不思議な存在が実在するのなら、会ってみたいと思うのは当然かも知れない。
 ただ、干渉できるということに一抹の不安を抱く。それはローの過去を変えてしまうのではないかということ。そうは思っても、この後もサンジの意思とは関係なく、眠れば否応無しに夢としてローの傍に立つ自分がいるし、向こうもサンジに気付くと多少干渉してくる。
 触れれば夢から覚めるのだから、そうしてローの前から逃げ出せばいいのに、どうしてかそれも出来ないでいた。それはサンジ自身が確かめたいと思っているあることが邪魔をしていた。
 ローがどういう想いでキスをしてきたのか。それを知りたいから、この夢に留まった。
 出来るだけ未来に影響を及ぼしそうなことには関わらないようにし、ローが自分を探っていそうな時には分からない振りをした。ただ食事に関することにはどうしても我慢が出来ず、調理者としてはおそらく素人である彼らの食生活の僅かながらの向上のために、いくつか口を出してしまったことには目を瞑ってほしいと、誰にともなく懺悔した。
 関わってしまう罪悪感に落ち込むことも多かったが、こと食事に関してはどうやら感謝されているようで、嬉しそうにしている彼らを見るのはサンジにとっても喜びだった。とても人の良さそうな連中で、ローのことを慕っているのが在り在りとわかる。
 サンジはローの船に、自分たちのサニー号と似た温かさを感じていた。仲間を思い合う、大事にしたいと思う心。
 ただローはその中にあってまだ少年とはいえ船長としてクルーをまとめなくてはならないし、その相手は皆彼よりも年上だ。意識はせずともそういった甘えが出てしまわないように、双方気遣っているのが分かった。とてもいいチームだ、と思った。
 そうして幾度となく夢を介してローの過去を垣間見ていると、彼の成長をも見ていることに気付く。初め見上げていたローの目線は、いつの間にかサンジの背を越えて見下ろすようになった。サンジの良く知る身長差は同時にあの時のキスも思い起こさせ、知らず煙草のフィルターを強く噛んでいた。
 その頃からか、サンジは何度も同じ場面に居合わせるようになる。
 おそらくここは手術室。部屋全体は暗く、室内灯は切っているようだ。ただ一カ所だけ、煌煌と灯が灯っている。
 無影灯が照らしていたのは、手術台の上に置かれた一本の腕だった。いや正確には前腕から手まで、肘から手の甲にかけて指先までを、まるで魚を卸すように薄く削いだ腕だ。それが白いシーツを張った台にポツンと置かれている。腕には薄いインクのペンで何かの模様が描き込まれている。
 一体これは何だと思っていると、暗闇からローが姿を現した。サンジに気付いたようだが一瞥しただけで、小さな椅子に腰掛けて手術台に向かう。手にしていたのは見たことの無い器具で、ペンのようだが尾部にモーターのようなものが取り付けられている。そのペン先を、置かれた腕の模様に沿って動かし始めた。
 ブウゥンとモーターが動く。ローの顔が僅かに顰められる。
 よく見ると右手でペンを持っているが、台の上の薄っぺらい腕を押さえている左腕は肉が削がれて骨や筋肉が剥き出しになっており、それで漸く台の上のモノがローの左腕の一部なのだと分かった。
 モーターの動きと共に濃くなる黒い模様。それは次第に見たことのあるシンボルへと変化していく。
 ローは自分で自分に刺青を施していた。
 ペン先から高速で出入りする針先は墨を纏い、ローの腕を単色で彩っていく。サンジはその行為に身を動かすことができず、ただ背後から見つめるだけだった。
 その後もローの肩、胸、背中と刺青が増えるその場面に何故か立ち会い、行程を一部始終眺めていた。体に纏わり付くような模様が増えていく度、ローの顔が痛みではない何かの為に歪む。体を痛めつける行為ではなく、刻み込む行為。それは彼の覚悟のようなものが滲んでいた。
 左手の五指に死を意味する単語が刻み込まれ、そこでローの作業に同席することはなくなった。
 その頃にはもう「死の外科医」という二つ名が通っていたのか。いや、この墨を機にそう呼ばれたのかも知れない。
 ローは自身の誇りを鎧のようにその身に纏って海を進む。サンジはその先の事を脳裏に浮かべ、胸を押さえた。
 ローの向かう先は険しいことを、知っている。