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2015年04月08日 17:49
 シャボンディ諸島での事件以降、麦わらの一味に関する消息は途切れた。だが数日の後に起こったマリンフォードでの頂上決戦。そこで麦わらの船長を助けることになる。悪縁も縁、とは我ながらよく言ったものだが、麦わらに関わっておけばまたユーレイの本体と接触する機会が得られると踏んだのも、わざわざ縁を作ったひとつだ。
 それにしても外傷がひどく、この場で命を取り留められるかどうかは賭けでしかなかった。自らの能力を駆使して患部を細かく切り刻み、マグマで灼かれて死んだ細胞を切り離し、生きた細胞を移植し、そのあしからじわじわ壊死していく細胞を見極め、切り離し、移植していく。いたちごっこのような処置を繰り返し、その体を、命を辛うじて繋ぎ留める。後は月並みだが本人の気力体力次第で、医者としてできることはやった。
 使う程に体力を削られる能力を極限まで使い、術後は疲労困憊で座り込んだ椅子から立ち上がれずに項垂れて動けなかった。目の前には虫の息の男。ローとユーレイを繋ぐ、頼りない糸。死んでもらっては困る。
 疲れた体を宥めるように何度目かの溜息をつくと、背後から伸びてくる二本の白い手が視界に入った。それはローの首回りで交差され、不意に肩口にも白い頭が見え、すっと消えた。

「……居たのか」

 全く気付かなかった。元々気配も稀薄なのでその訪れを知るには視認がほとんどなのだが、手術中は能力もフルに使う程のオーバーワークでそれどころではなかった。
 先程の白く長い指が視界に灼き付いている。ユーレイは、ローの背後から抱きついたのだろうか。
 それにどんな意味があったのか。その真意を図りかねたまま、ローはやがて女ヶ島を後にした。
 世間からは消えたと思われていた麦わらの一味だったが、ユーレイは相変わらずチラチラと姿を見せていた。あの時の抱擁らしきものが何だったのか、尋ねてみようにも会話が出来ないのはもちろんだが、ユーレイが何もなかったかのようにいつも通り振舞っていたので気にしようにもどうしようもなかった。変わらずに色々話しかけてきたり、時々食事の摂り方に文句を言ったりしている。
 そんな何でもない時間が過ぎていたが、相変わらず現実ではユーレイ本体どころか麦わら一味の生死さえ確認出来ていなかった。船長でさえ命は取り留めたものの、その後の暴れようで傷が開いたかも知れない。もしかすると麦わらの一味は誰一人残っておらず、ユーレイはやはりユーレイだったのかとも思う。
 触れれば消える不確かな存在は、落ち着かない気持ちの焦燥をより濃くするだけだった。





 ある時目を覚ますと、眼前にユーレイの顔があった。真っ白で、片眼は薄らと見開いたまま、かなりの至近距離で、何が起こっているのか分からない。ユーレイはローが目を開けたことに驚いて、その拍子におそらく触れてしまって、消えた。
 ユーレイはキスをしようとしていた、のか。結果、したことになるのだろうか。
 感触はなかったのに知らず指で唇を辿っていて、指先の冷たさと触れた唇の温かさのギャップに一瞬眩暈がした。
 ユーレイがしたことの、行動の意味。ここに存在しないモノが起こしたことに、何の意味があるのか。そもそも、ユーレイがローの前に現れたことに何の意味があったのか。
 こんなに深くまで入り込んでおいて、これに意味がないなんてふざけている。しかし意味を得ようにも、いつも、いつまでもローからは何もできない。最初から今まで、ずっとユーレイからの一方的な関わりだ。現れるのも、触れると消えるのも、勝手に消えるのも、全てユーレイの都合で、関わりの中でローがどんな感情を持ってしまっても、それこそ何の意味も無い。
 いつまで続くか分からない飼殺しのような現状に唾を吐きながら、やはりどうしようないまま時を過ごしていた。ユーレイがキスらしきものを仕掛けてきてから、姿を現すことは無かった。
 その間、世間を賑わせたのは解散したと思われていた麦わらの一味が集結したというニュースだった。こつ然と姿を消したあの島で海軍と派手に交戦し、海の中へ逃げていった。
 船長は女ヶ島で別れて以降死ぬことは無かったようだし、一味も誰ひとり欠けることは無かったようだ。それを伝える新聞記事の中に、見知った後ろ頭の写真を見つける。
 ユーレイは生きていた。
 それを知った時の、久方振りの高揚感はとてもじゃないが言い表せない。自身が抱える想いを腐らせずに済むと、安堵の入り交じった溜め息が漏れる。
 ユーレイの本体と、いずれ接触しなくてはならない。それまでにこれから自分が行う計画を滞りなく進め、終わらせる必要がある。
 これで、生きて戻る理由がひとつ増えた。
 ローにとって住み慣れた自船、失うことができない大切なクルーたちの元を離れる直前、ユーレイが現れた。船を離れるということは、ここでしか姿を見せない彼との繋がりもなくなる。
 ユーレイはローの出で立ちを見て、確実に眼を見開いて驚いた顔をした。それから静かに微笑い、目許からぱたぱたと雫を落とす。そんなものが、今日は何故かはっきりと見えた。
 ローは手を伸ばし一瞬躊躇ったものの、ユーレイの眦に親指を添えた。雫がぽたりと指に落ちるような感触。拭ってやったつもりだが、できていただろうか。
 ユーレイはとうにその場から消えていた。





 仲間と船を別れ単身パンクハザードに乗り込んだローは、日々神経をすり減らしながら静かに計画を進めていた。ここでの計画が上手くいかなければ、この先は無い。
 敵地での息を詰めるような行動に派手な色を加えたのは、またしても麦わらの一味だった。突如訪問してきた海軍との間に、ローでさえ知らなかった実験対象の子どもたちとともに飛び込んできたのだ。
 その中にいた黒い影。
 驚いたことに二年経って目にしたユーレイの本体は、船に現れたユーレイと寸分違わぬ姿をしていた。
 だが本体はローの方を見るどころかこちらには全く関心がないようで、見知った顔のスモーカーやたしぎへ声を掛けている。
 そうか、ここからなのか。ユーレイとの接触は、ここから始まるのか。
 漠然とした確信が、ここにある。
 やがて現れる麦わらの船長へ、ローは同盟を持ちかけた。その後は海軍とも共闘してしまうことになり、どうにも当初の予定とだいぶ様相を変えてしまったが、ここパンクハザードでの目的は達成することができた。
 子どもたちの診察とこの場でできる治療を済ませて外に出ると、何ともいい香りが漂っていた。どこから運び出したのか、途轍もなく大きな鍋からはこの雪景色に見合わぬ真っ白な湯気が立ち昇り、その中で忙しなく動いている人影が見える。自分の頭部よりも大きな武器のようなお玉を器用に操り、その合間にも傍で起こした火を使って色々な食事を作り上げている金色の頭。片眼の薄い青はそれがとても楽しそうに揺らめいている。
 研究所を出る際のトロッコでは、天井から崩れてくるコンクリートの塊を事も無げに蹴り砕いていた。随分と凶暴な戦闘員だと思っていたら、ヤツの本職はコックだとトナカイの医者が言っていた。なるほど、やはり料理に精通しているヤツだったか。これで食事に関して煩く言っていたのにも合点がいった。
 てっきり子どもたちに食事を与えるだけの準備かと思っていたら、空気を読まない麦わらの船長によって無用の宴を繰り広げられてしまい、しかし焦る自分がどうにもこの場では浮いてしまうのがなんとも解せないが、言って聞くような連中ではないのはこの短い関わりで分かったので腰を落ち着けるしか無い。

「サンジのメシは美味ェぞ。食ってみろ!」

 麦わらの船長がにこにこしながら遠くで叫び、一足先に食事を終えた子どもが持ってきたスープを受け取る。暖かい湯気と腹の底に溜まるような匂いに引き寄せられて口を付けた。
 単身乗り込んでから、初めてのまともな暖かい食事と言っていい。ただ暖かい、美味いだけではない味に手が止まらなかった。
 そうしてますますユーレイの本体、黒足のサンジという人物に興味を募らせたまま、ローは麦わらの一味の船に乗り込んだ。船上にあっても連中の騒がしさに変わりはなく、自分以外の客人である侍親子も騒々しさの渦中にあり、作戦会議中も誰も彼もが口を出してきて、普段は一体誰がこの船をまとめているのかと大いに疑問を持つ。
 そんな中にあって、麦わらの船長の言動や思考について忠言を寄越してきたのは黒足だった。その物言いにも、ローのことを見知っていての口調を読み取ることはできない。
 この一味にあってある程度冷静に物事を見ることができる人物なのかと思えば、話の流れですぐに熱くなったりその延長で脚が出たりする。だがそんな姿はユーレイとして自船に現れていた時によく見られた。
 そして何やら、忙しそうには見えないが頻繁に姿を消していることも多い。どうやら夜食の準備をしたり、翌日の朝食の仕込みなどコックらしい仕事を細々としているらしかった。
 そのまま黒足とはまともに顔を合わせることなく夜を明かす。朝も朝でドフラミンゴとの遣り取りから朝食に雪崩れ込んだが、驚いたことにぼそりと呟いた一言でローだけメニューが変わった。「パンは嫌いだ」とほんの小さく零しただけなのに、サンドイッチからおにぎりに。どのタイミングで聞こえていたのかは分からないが、それ程周囲に気を配れる人間なのだろう。具に梅干しを使ったこと以外は文句のつけようがなかったが、ひとつだけ気になることはあった。
 急遽拵えられたのであろう青菜のお浸しに添えられた醤油。それは、ユーレイが教えてくれた味のものではなかった。
 朝食後暫くして後甲板へ足を伸ばすと、紫煙の香りが示した通り黒足が一服していた。

「よう、どうした? なんか飲むか?」

 煙草を咥え、フィルターを噛みながら喋る。そういえばこれもよく見た光景だった。癖なのだろう。

「間もなくドレスローザが見えてくると、ナミ屋が言っていた」
「そうか。もうそんな時間か」

 黒足はポケットから携帯灰皿を取り出し、その中に煙草を押し付けて蓋をした。それをポケットに戻すと顔を上げ、ローと視線を合わせる。

「で? それを伝える為だけにわざわざここまで来たわけじゃないだろ?」

 パンクハザードで行動をともにするようになってからずっと、ローに見られていることに気付いていた。一挙手一投足を監視するように見つめられ、これは一言物申した方がいいだろうかと思案していたところだ。

「……こんぶ……」
「え?」
「出汁取り用の乾燥昆布はあるか?」
「こんぶぅ?」

 全く予想外の単語が出てきて、思わず高い声が出てしまった。次いで噴き出してしまうところを辛うじて口を抑える。
 肩を揺らしておそらく笑っている男に、上から不機嫌全開の視線を落とす。

「……おい」
「いやぁ、わりぃわりぃ。お前から乾燥昆布なんて単語出てくると思わなくてよ。だって似合わねぇじゃん」

 未だおかしくて堪らないというように目を細めたまま、食料庫へ入って行く後にローも続いた。

「そっか、パンが嫌いならやっぱり和食党なのか? 乾燥昆布知ってるくらいだもんな。お前も料理すんの?」
「俺はしねぇ。クルーが交代で作ってる」
「ふーん。お、あった。これをどうするって?」

 会話しながら、棚に積んであった食材の中から件のものを引っ張り出す。

「醤油に突っ込んどけ。それのお陰で、うちの食事は格段に良くなった」

 空色の眼がぱちくりと見開く。
 言われた内容はすぐに理解できた。それは料理人としてとても嬉しい情報だが、やはりローの口から聞くことに一種のおかしさが滲んでしまう。

「お前の船には料理上手がいるんだな」
「いや、それはユーレイに聞いた」

 そう言って片口を上げてニヤリと笑うローに、黒足は眉尻を上げてまたしても聞き慣れない単語を不審に思う。

「ユーレイ?」
「出るんだよ、うちの船にな」
「……へぇ。そいつが料理上手なのか?」
「おそらくな。調理してるとこは見たことないが、色々口煩くアドバイスはしてくる」

 なんて非現実的な会話だろうとは思うが、ローにとっては現実の出来事であるし至って真面目な話だ。黒足もその雰囲気を汲み取り、やはり似合わないとは思いつつも茶化すようなことは言わなかった。
 ふうん、と鼻を鳴らすような相槌を打った後に現れた僅かな沈黙に耐えきれなくなったのか、もしくは先程まで考えていたことなのでこの際と思ったのか、手にした乾燥昆布の束を弄りながら薄い青がローを捉えた。

「なんでさ、ずっとオレのこと見てんの?」

 パンクハザードで初めて顔を合わせ、この船に乗り込んでから今この瞬間まで、ずっと。
 いや、違う。初めて会ったのはもう少し前だ。

「そうだ、二年前のシャボンディでもだ。あれが初対面だ。なんでオレを見てた?」

 至極真面目に、この顔がそう問うてくる。

 なんで見てただと?
 お前がそれを俺に言うのか。

 ローは喉の奥で込み上げる笑いを噛み殺した。

「なんだ、そのことには気付いていたのか。なら話は早い」

 そうして一歩、黒足へ近付く。

「黒足屋、俺はずっとお前に会いたかったんだよ。今のお前に」

 ずっと、ずっと前からな。

 小さく言葉を零しながら、一歩また一歩と距離を詰めていく。
 妙な迫力に気圧され、黒足は知らずに後退していた。じりじりと間合いを詰められ、背が壁に当たる。
 外はあんなにも陽が降り注いで明るいのに、ここは仄暗くて、近付いてくるローの顔が影になって見えなくなる。
 反射的に俯いた顔をローの両手が包んだかと思うと、強い力で上向かされた。目が合う。パールグレイの虹彩は薄く光を帯びていて、微かに揺らめいて見つめてくる。
 やばい、と思った時にはもう、唇は重ねられていた。驚きに僅かに開いた隙間からあっという間に侵入される。触れた唇はヒンヤリとしていたのに、性急に咥内を嬲る舌は思いも掛けない熱さで、粘膜を擦られる度に背筋が震えた。唇はぴったりと塞がれ、奥まっていた舌を探られ吸い出され、搦め捕られ息が詰まり、思わずぎゅうと目を瞑る。
 手にしていたものを落とすと、床で渇いた音が鳴った。空いた手でローの胸を押し剥がそうとするが、顔を包んでいた少し大きな手に握られ、押さえ込まれてしまう。全身を壁に押し付けられ、ローの体で挟まれ、胸まで圧迫された。まだ足りないというように更に深く口付けられ、貪られる。呼吸が思う通りできず、息苦しさに知らず涙が零れた。
 小さく呻いたことでローの力が緩みゆっくりと口が離れていくが、名残惜しそうに舌先を吸い、下唇を吸い、上唇を舐め上げ、漸く顔が視認できる程に距離がとられる。荒い息を整えようとするが上手くいかない。頭に酸素が回っていないのかくらくらとしている。ぼーっと見上げる空色の眼は涙に滲んで更に色を薄くしていた。
 ローが徐に顔を下げ、再び口付けようとしたのに気付いた黒足が身を硬くしたとき。遠く甲板から「島が見えたわよ」というナミの声が漏れ聞こえた。
 唇は触れる寸前で止まる。
 いつかの瞬間のようだ、とローは思った。目を覚ますとユーレイがキスをしてきて、微かに触れて消えたあの時。
 でも今はこうして触れることができる。体温を持った生身の体をこの腕に囲い、唇に触れることができる。
 ここにいるのはユーレイではない。生きて存在している、黒足のサンジという男だ。
 このドレスローザで目的を果たしたら、そうしたら今度こそ。

 今度こそ、コレを自分のものにするのだ。

 ローは体を離して掴んでいた手を解放しようとし、手首に薄らとついた赤い痕に気付く。そんなつもりはなかったが、随分と締め上げていたようだ。
 手首に労るような口付けを落とすと、金色の頭がびくりと震える。
 その反応に気を良くし、もう一度だけ唇を押し当ててから今度こそ解放した。

「これは、お前から仕掛けてきたんだからな。あの時の礼だ」

 そう言って呆然とする黒足を残して食料庫を出た。