4【終】(約6500字)

2015年04月08日 00:27

 

 最近貧血が全く改善されない。本人はそんなことはない、大丈夫だと強がるが、あんなに血色の良かった顔は常に青褪めているし、セックスする体力もとうになくなった。
 すっかりサイクルのひとつになっていたが、元々はゾロが言い出して始まったことだ。そこで欲望に任せて吸血してしまうことも、都度ヤツの精を体の奥で飲み込むことも、毎日は必要ないものだった。だからその行為がなくなったところで、絶った当初は多少の飢えを感じはしたが、本当に喉の渇きを抑えられない時に、潤す程度含ませてくれればいいのだ。
 それを頑に、体を繋げずとも血だけは吸えばいいと言った。
 貧血が進んでいるから無理だと断ると、ならばやはりお前が上になって精を搾り取れと青い顔で言う。
 極たまに僅かでいいのだと諭すと、自分が溜まって辛いのだとすぐ分かるような嘘を吐く。
 だったら口でしてやると言えば、それはお前の糧になるのかとそんなことを聞いてくる。
 切羽詰まったその様子に、何を焦っているのかと問えば、

「お前はおれのこの姿を見て、何も感じないのか」

 と悲しそうに嗤い、見えている方の眼を片手で覆った。
 その手には深く皺が刻まれ、項垂れるその頭はあおあおとした芝生のようだったのに、雪が降ったように白く彩られている。

「もう、時間がない」

 低い声は掠れ、力無く零れる。抱き締めると、腕の中にすっぽりと収まってしまう体。あんなに厚かった胸板はすっかり筋肉が落ち、骨と皮ばかりになってしまった。それでも大切なことには変わりない。
 最近の日々は、体が受け付けるような流動的な食事を僅か与え、自らの体温を高めに保って抱きかかえて、一緒に眠って過ごすだけだった。
 まだ大丈夫だと思っていた。もう少し、先だと思っていた。
 そんな自分の時間感覚と、実際に進む男の時間は、想像以上にズレていたのだと漸く気付く。

「お前は、変わらないな」

 腕の中でぽつりと言い、顔を上げ、皺だらけの両手で頬を包んでくる。

「七十年前、一目惚れしたときから変わらないまま、キレイだ」

 自分の姿なんて、気にしたことはなかった。若いレディの好むような年上の落ち着いた大人、年下の甘え上手な青年、ジジィの失くした孫に似た少年。年齢なんて在って無い様なもので、対峙する人間にとって都合のいい姿で見えるだけなのだ。
 ゾロには、どういう風に見えていたのだろうか。自分さえ知らない、本当の姿だったらいいのにと思う。

「時間がない。生き血しか飲めないんだから、さっさと吸え」

 頭を抱きかかえられ、口許を首筋へ誘導される。筋張っていて、どこに牙を刺し入れていいのか分からない。

「全部、吸い尽くせ。少しでも糧になるのなら、無駄にするな。おれの全部を……お前の中に取り込んでくれ」

 頼む、と言った声が震えていた。
 ああ、いやだ。
 この男を、失くしたくない。
 あっという間だったけれど、こんなに穏やかに心安く過ごした日々はなかった。
 片足の料理人を失くした時に初めて感じた孤独を、ゾロは埋めてくれた。
 自分を求めてくれることで、心が満たされた。
 この男を失くした先の日々に、一体何があるというのだろうか。
 またぽっかりと、穴が空くだけだ。
 それを抱えて、気の遠くなるような刻を生きていかねばならない。
 いやだ。



 パンッ


『         』



 一瞬頭の中が白く弾け、唐突に知った。
 そうか、無い訳じゃなかったのだ。本当に、心から、共に在りたいと思う相手を見つけた時に、古の記憶が呼び起こされる。同じモノになれる方法はあった。それはリスクを伴うものであるけれど。
 それでも、ただ失うことはしたくない。

「なぁ、悪ィ……契約を、解くぞ。ちょっと辛いかも知れんが、少しだけ耐えてくれ」
「なん……?……! あ、ぐ……」

 ゾロが、左眼の傷を押さえて踞る。突然湧き上がった疼きと熱に、どうしていいのか分からないのだろう。
 これは、契約によって自分が引き受けていた傷の痛みだ。だいぶ時間が経過して和らいではいるが、老いた体には酷だろう。辛い思いをさせたかったわけではない。だがそうまでして、聞き出さなければならないことがある。
 契約を交わした状態は、謂わば強制だ。無理矢理結んだ主従関係から生まれる言葉に真実はない。
 遠い過去、契約を結んだ者は、それを解くと皆逃げていった。だから、恐い。

「辛いな、ゴメンな。どう転んでも、すぐに楽になるから。だから、答えてくれ」

 覗き込む自分の表情は、きっと情けないくらい悲愴だろう。
 ゆっくりと瞼を上げて見つめてくる眼は、少し濁った琥珀だ。この眼で見た自分を、ずっと変わらないと言った。きっと視界はぼんやりと霞んでいるだろうに、それでもやはりゾロの中での自分は、出会った時に抱いた印象そのままなのだろう。

「お前は、オレとどうなりたい?」

 形の良い眉が訝し気に寄せられる。質問の意味を図りかねているのだろう。
 もう一度、諭すように話しかける。

「契約は無効になった。お前はもう自由だ。お前の選択肢はみっつ。オレから逃げ出す。人間として死ぬ。気の遠くなるような時間を生きる」

 濃い汗をかいている。辛いのだろうが、聞き逃すまいと必死の表情が愛おしい。
 思い出したように、もうひとつ選択肢を加える。

「お前をこんなにした、オレを殺すこともできるぜ。不死身じゃないんだ、案外簡単に死ぬ」

 そう言って銀の燭台から火の点いていない蝋燭を抜き取り、針のような先端を心臓の位置に宛てて見せた。

「ばか…やめ……!」

 慌てて伸ばしてきた手を掴み、燭台を放り出して両手で包む。あんなに熱かった、自分の体を高めた指先が、凍るように冷たい。
 持ち主のかつての体温を思い出しながら、その熱で温めてあげたいと胸が苦しくなる。

「お前が選んで」

 左眼の傷に、そっと唇を寄せた。抱き締めて、二人で横になる。腕の中で震える冷たい体を、なんとか温められないだろうか。
 かつて自分を抱き込んでいたこの男は、いつもそんな風に思っていたのかも知れない。

「このまま、念(おも)って。お前がどうしたいのか」

 願わくば、二人が同じ未来を描いていますように。

「眠ろう、ゾロ……」

 眼が覚めたら、新しい世界が待っている。

 
 
 
 
 
*****
 
 
 
 
 
 
 ここ最近では、珍しくスッキリと眼が覚めた。
 自分の隣をパタパタと探って、何もいないことを知る。黒猫の温もりも、体温のない体も、そして。
 夢なんて見たのはいつ振りだろうか。自分をすっぽりと包み込んだ温かい体は、誰だったのか。思い出そうとしても、ぼんやりと霞んで曖昧だ。左眼の傷が痛んだ気がしたが、それも引いている。やけにリアルな夢だったと思う。
 起き上がりベッドから出ると、いやに体が軽い。ずっと貧血でクラクラしていて、ベッドに沈むことがほとんどだった。その貧血症状が、きれいさっぱりなくなっていた。
 違和感に小首を傾げるが、ドアの隙間から流れてくる味噌汁の匂いに意識を持っていかれる。廊下に出ると、遠くリビングから乱暴に声が掛けられる。

「おう、起きたか。まずはシャワー浴びて汗流して来い。臭くてかなわねぇ」

 どこかで聞いたことのある、記憶の奥底をくすぐる言葉。
 素直に従い、バスルームへ足を運んだ。熱いシャワーを浴びながら、これもなんだか懐かしいなと既視感に捉われる。
 目の前の鏡に両手を着いて顔を上げ、鏡の中身を見て愕然とした。慌ててバスルームを出てタオルを引っ掴み、拭き取りもそこそこにリビングへ飛び込む。

「おわ! テメェ、ビショビショじゃねぇか。ってか何も着てねぇのかよ」

 奥のダイニングキッチンからキャンキャンと喧しく吠えながら、サンジが咥えタバコでやって来る。手にしていたタオルを奪い取ってわしゃわしゃと頭の水滴を拭き取り、雫を垂らす体の表面の水分を簡単に吸い取ると、再び頭にタオルをかけてきた。顔を覗いてからもう一度乱暴に手を動かすと、タバコを口許から外してちゅっと軽く口づけてくる。

「なんだよ、急にガキみたいに手ェ焼かせやがって。そんなにメシが待ちきれなかったか?」

 お前、味噌汁好きだもんな、と嬉しそうに笑うその顔に堪らなくなり、思わずぎゅうっと抱き締めた。おいコラ、とか危ねぇタバコが、とか文句を言っているが耳に入ってこない。こうして腕の中に囲ったのも、酷く久し振りな気がする。
 視界の奥でテーブル上の燭台が蝋燭を載せ、オレンジの灯をゆらゆらと踊らせていた。薄暗い室内は、なんだかいつもと違った空気を纏っている。何が違うのかなんて、よく分からないけれど。
 抵抗を諦めた腕の中の男が、小さく息を吐いて「タバコ」と一言だけ言った。こういう時は必要なことしか口にしないので、本当にタバコの火が危険なのだろう。
 力を緩めるとするりと腕の中から抜け出し、テーブルの灰皿にタバコを押し付けて始末してから、そのままリビングを出て行ってしまった。ごそごそ物音が聞こえてから足音がまたこちらに向かってくる。
 その間惚けたように自分の両手を見つめていた。
 気配に顔を上げるのと、顔にふわりとしたものが叩き付けられるのが同時で、手繰って広げてみればそれはバスローブだった。

「取り敢えずそれでも着とけ。全裸でメシとか冗談じゃねぇぞ」

 キッチンへ戻ろうとするその手を掴んで引き止める。掌へ伝わる温度に、心臓が跳ね上がった。先程感じたのは間違いではなかった。
 戸惑いの表情を読み取ったサンジが柔らかく笑い、掴んだ手をぽんぽんと優しく叩く。

「そうだな、まずは乾杯するか。いい酒があるんだ」

 宥められているのだと分かると、ふっと力が抜ける。サンジがキッチンへ入って行くのを見届けてから、のろのろとバスローブに袖を通しソファに腰を降ろした。
 かちゃりとワイングラスの合わさる音と主に、ボトルと燭台までも器用に持って戻って来る。ローテーブルに並べ、ボトルの中身をワイングラスに注いだ。
 赤い液体は、体を繋げた時の熱を連想させる。
 ほら、と手渡されたグラスを一度は手の中に収めたが、僅か逡巡してテーブルに戻した。

「はぐらかさないで説明しろ。てめェ、おれに何をした。この体はどういうことだ」

 バスルームの鏡を見て、何かが変わったとすぐに分かった。
 自分だけではなく、先刻抱き込んだ男にも変化があった。

「どうして体が元に戻っている。おれは、死にかけていたはずだ」
「……うん、危なかった」
「お前の体温、人肌だったな。それ、調節したもんじゃないだろう、何となく分かる」
「うん、温かかっただろ?」

 隣に座ったサンジが、ゆっくりと首に腕を回して来た。
 自分と同じ温もりで触れ合う頬が心地良い。

「これは、お前が望んだ未来だ」

 吸血鬼が仲間を増やす方法は、皆無ではなかった。
 心から共に在りたいと思う相手と、描く先の未来が同じであること。それだけのことだった。
 人間として限りある生を、吸血鬼として永久の生を。
 共に生きるのか、分かつのか。
 どう生きたいのかを、問われる。
 想う人間に選ばせ、それが同じであったなら、それはもう仲間を越えた存在だ。どの未来を選んだとしても、二人の想いが同じであればそれは二人にとっての未来。
 ただ、相違があった場合、選んだ人間には何も起こらない。選ばせた吸血鬼だけが、砂になって消えるだけだ。
 過去、想いを通わせ人間となった者も、吸血鬼となった者もいるだろう。だがおそらく、想いを遂げられずに砂になった吸血鬼も多いはずだ。それどころか、こうして仲間を作る方法さえ知らずに朽ちていった者もいただろう。だからきっと、存在自体が希薄になっていったのだ。
 この試練を乗り越えた自分たちは、ただのラッキーだったかも知れない。それでも、こうして二人、温もりを伝えることができている。

「お前は、何を望んだ?」

 加齢故の限界と、傷が齎す苦痛の中で、望んだ未来は。

「……もう一度……いや、もっともっと、てめェを抱きてぇなぁ…って。明るい中で、ヨがるおめェを見てみたかったなぁ、って」

 言いながら腰を抱き寄せ、自分の膝の上に跨がらせて向かい合う。抵抗などなくされるがままに乗り上げた男が、言われた内容に紅潮して顔を上げた。

「ばっかだなぁ、お前。死にそうな時にそんなことばっか考えてやがったのか」
「仕方ねぇだろ。何年……何十年ヤッてなかったと思ってんだ」

 サンジにとっては瞬く間の月日だったかも知れない。
 だが自分にとっては、血を与えてやることも、悦ばせてやることも、何もしてやれない苦悩の年月だったのだ。

「そう言うてめェはどうなんだよ。何を念ったか白状しやがれ」
「オレは……お陽様の下で一緒に出掛けたいな、とか、ガリガリになったお前を抱えていて、もっかいぎゅってして欲しいな、とか。そんなこと」
「なんだよ、似たようなモンじゃねぇか」
「ま、本質的なとこはな」

 そうじゃなければ、こうして笑い合うことはなかった。
 ゆっくりと唇を合わせる。いつも傷付けないようにと気を遣っていた鋭い牙は、もうどこにも当たらない。体中を傷だらけにしていた尖った爪も。
 舌を絡ませ、互いに吸い合い、とろりと心を溶かして、見つめ合う。

「抱きてぇと思ったら体が若返ったってのは、存分にヤッていいってことだな?」
「わっるい顔すんなよ。言っとくがこっちは人間になったんだからな。以前のような無茶は効かないからな」
「これ以上無ェってくらい、優しく抱いてやるよ」

 さらりと滑る金糸に指を梳き入れ、言葉通り優しく搔き上げる。くすぐったそうに身を捩る姿が愛しくて、もう一度深いキスをした。
 そのまま手がシャツの裾をまくり上げて中に入ろうとするのを、体温の通った手で制止される。

「なんだ、喰わせろよ」
「だーめ、メシ食ってから。せっかく作ったんだから」

 膝の上からするりと滑り降りると、ローテーブルの燭台の蝋燭を三本、一気に吹き消した。ぴっちりと閉め切った遮光カーテンのお陰で、部屋の中は真っ暗になる。
 そのカーテンがふるりと揺れて、次の瞬間、一気に引かれた。

「……っ!」

 北向きの大きな窓からは直射日光を拝むことはできないけれど、それでも長い間陽の光を絶ってきた眼には刺激が強いながらも、馴染むのも早かった。
 男は眩しそうに眼を細め、外の景色を眺めている。身を焦がすような苦痛はない。明るさを、もう恐れなくてもいい。

「なぁ」
「ん?」
「メシ食ったらさ、ちょっと散歩行ってみねぇ?」

 嬉しそうにこちらを見て笑う男のささやかな申し出を、叶えてやりたい気持ちは大きいけれど。

「メシ食ったらてめェ喰うっつったろ」
「えー、陽が落ちちまうじゃねぇかよ」
「夕方くらいでいいだろ、リハビリとしちゃあ。ほら、乾杯するんだろ」

 テーブルの上のグラスを取り、先程とは逆に男へ手渡す。
 再び隣に腰掛けたサンジの顔を覗き込みながら、自分もグラスを構えた。

「で、何に乾杯なんだ?」
「んー……オレたちの、新しい誕生日?」
「そうか。ま、そういうのはお前が覚えておいてくれ。おれはすぐ忘れちまう」
「なんだよ、ムード無ェなぁ」
「おれはまたこうして、お前と居られるだけでいい」

 静かにグラスを合わせて口を付けると、ぐいっと一気に呷る。こんな風に酒を飲むのもやはり久し振りで、思った以上にアルコールが内臓に滲みていくのを感じた。
 もう一杯とボトルに手を伸ばそうとするのを止められる。

「これはまた後で。なぁ、メシを食おう。一緒に」

 視線を促された先のテーブルには、二人分の食事。

「あぁ、そうか。一緒にメシを食えるんだな。二人で、お前のメシを」

 もう、口に入れた食物は無駄にはならない。血となり、肉となり、命となる。
 サンジが微笑みながら、テーブルへと手を引いた。
 二人で食事をしながら、色んなことを話した。

 この部屋から南向きの部屋へ引っ越ししよう。
 二十四時間営業のスーパーはもういらないな。
 海の見える、静かな場所がいい。
 毎日、海を見て散歩をしよう。
 二人で、一緒に年をとっていこう。

 ベッドの上でもそんな睦言を交わしながら、抱き合って体温を確かめ合った。柔らかな金の髪を指先で弄びながら、不意に思いつく。

 そうだ。

「猫を飼おう」

 金の眼をした、真っ黒なやつを。
 アレを抱いて、二人と一匹で、ゆっくり眠ろう。
 そして朝日を浴びて目を覚まそう。
 そうやって、生きていこう。

 二人を苛む孤独は、もう、ない。



end