2015年04月08日 00:40
ずっとずっと、会いたい人がいる。
顔も名前もわからないけど、でも、ずっと会いたいんだ。会えたら絶対に分かるはずだ。だって、あんなに大好きだったんだから。
そう、それは多分、前世というヤツだと思う。
物心ついた時には、また会える、会わなくちゃいけないと思う人がいた。きっととても好き合った恋人同士だ。
だって、その人のことを思うとこんなに胸が苦しい。
顔も名前も声も、忘れてしまったけど。自分を抱く逞しい腕と、包み込む体温は、何故かはっきりと覚えていた。
あれ、オレはレディだったのかな。それじゃあ、これから出会う人はレディになっているんだろうか。
でも、予感がする。
オレはまた、その人に、恋をする。
顔も名前も声も、分からないけど。どうしてだろう、一発でオチる自信があるんだ。
あぁ、早く会いたいな。
*****
オーナーが手離すと人伝に聞いたレストランを譲り受け、名もバラティエと改め再オープンさせた。元からの客も新しい味に興味を示し、人の入りは上々。そしてその味の虜になった者の口コミで新規の客も入り、小さなレストランは緩やかであるが人が絶えなかった。
ある日のランチタイムにやってきた素敵なお客様。オレンジの髪の、笑顔が麗しいレディ。
(あれ、どこかで会ったことがあるかも)
強い懐かしさに胸が鳴る。もしかして、このレディがずっと待っていたあの人なのかと。
休日のホールでオーダーを取るのは、サンジの仕事だった。もれなく彼女の元へと足を運ぶ。
後でもう一人来るから、先に紅茶を一杯。
そう言ってから、さらりとサンジの髪に手を伸ばしてきた。
「キレイな金髪ね。眼も、海みたいに青い。私、なんだかずっと前に、こんな感じのキレイな髪を見た覚えがあるわ」
胸が騒ぐ。
いつもならレディに触れられてこんな甘いことを言われたら、舞い上がりたくなるくらいに浮かれてしまうのに。どうしてか体はぎしりと音を立てそうなほどに固まった。
やはりこの人なのか、となけなしの記憶と頼りの感を総動員して確認する。
顔は、見た覚えがある。
名前は、分からない。
声は、なんとなく懐かしくてときめく。
笑顔、あぁ素敵だ。
懐かしさという唯一の糸を手繰り寄せるが、どうにも手応えが曖昧だ。一先ず職務を遂行しなくてはならない。
自然と選んで出したのは、アールグレイだった。彼女は香りを嗅いで、驚いた顔をする。
「私アールグレイでも、このオレンジの香りがするのが大好きなの。これ、なかなか売ってないのよね」
喜んでもらえてよかった、と胸を撫で下ろす。
サンジの中で紅茶といえば何故か、アールグレイにオレンジ・ピールの組み合わせだった。特別好きというわけではなかったが、どうしてか紅茶はコレ、と感覚的に。
そしてこのレディもこれが好きだ、と不思議と確信があり、なんの疑問もなく用意してしまった。結果喜んでもらえたのはとても嬉しかったし、やはり自分と彼女は何らかの繋がりがあるのではないかと期待が高まる。
美味しそうに紅茶を啜る彼女は時折腕時計を見ながら、窓の外にも視線を送っていた。
そのソワソワとした動きに、胸がつきりと痛んだ。待ち人はもしかして、恋人なのかもしれない。
(あぁ、そうだよな。こんなに魅力的なレディだもの、恋人だっていて当然だ)
たとえ彼女が出会うはずの想い人だったとして、サンジがそうであると確信したとして、今こうして出会うまでの時間が長すぎた。重ねて言えば、サンジにとって運命の相手かもしれないが、相手もそうであるとは限らないのだ。
彼女の顔がパッと明るくなる。同時にドアに下げたベルが軽やかに音を立てた。
振り返り、入ってきた人影を見て息が詰まる。
(あ、見つけた)
この人だ、と分かってしまった。
懐かしい芝生のような緑の短髪。整った眉に、切れ長の眼はとろりとした琥珀色。
心臓が早鐘のように鳴り出す。オレンジの髪の……思い出した、ナミさんが、席から僅か腰を浮かせて大きく手を振る。
それに気付いた緑髪の、男、がそちらへ向かった。
「ちょっと遅いじゃない。ランチタイム終わっちゃうところだったわ」
「うっせぇ、間に合ったからいいじゃねぇか」
「どうせまた迷子になってたんでしょ? ちゃんとナビ設定してあげたのに」
「ナビの通り来たら時間かかったんだよ。おかしいぞ、コレ」
「おかしいのはアンタの方向感覚! まぁいいわ。せっかく楽しみにしていたバラティエのランチなんだから、早く注文しましょ」
そんな遠慮のない言い合いが、とても懐かしい光景に見える。
不意に潮風が鼻先をくすぐった。
(あぁ、全部、思い出した)
聞こえてくる、少しだけハスキーな低い声に背筋がざわつく。
でも、いろいろ、全部、遅かった。
二人は恋人同士なのだろう、とても自然な空気だ。船の上でも、サンジが知らない間の二人の歴史があった。そういう、触れられない部分が昔もあった。
遠い遠い、もしかしたら次元さえも違うかもしれない世界で、サンジは、目の前にいる二人をも含めて、海賊だった。同じ船に乗る仲間であり、恋人でもあった。
この緑頭の男、ゾロと、男同士でありながら。
出会えたけど、この人だと分かったけど。
遅かった。
(どうして……!)
出会うまでの時間が長すぎた。
何よりも。
(どうして、オレだけ)
色々と押し寄せる記憶、疑問、焦燥。
それらを押し殺して、笑顔で二人に近付く。
「ランチのご注文でよろしいですか?」
「ええ、お待たせしてごめんね。ホントにコイツの方向音痴ったら」
「しつけぇ。それより腹減った」
「テメェ、レディになんて口の利き方してやがる」
「あぁ? なんだてめェ、ガキは関係ねぇだろうが」
ナミに対する乱暴な物言いに思わず口が出てしまったが、そう言われて、ぐっと言葉が詰まった。
そうだ、その通りだ。この二人の遣り取りにサンジは関係ないし、何よりも、ガキであることは避けられない事実だった。
黙ってしまったサンジが、ゾロの醸し出す雰囲気と乱暴な口調に怯えたと思ったナミは、ギッと強い目線でゾロを睨む。
「ちょっと、子供相手になに本気で凄んでんのよ。大人気ないわね」
実際のところは、ゾロのこれくらいの眼光などには全く怯む気はしない。船の上で手合わせのように交わした喧嘩で慣れてしまったし、もっと鬼気迫る眼を知っている。
そんなことも全部、思い出していた。
だから怖いとかそういうものを感じた訳ではない。それでもうっすらと滲んでしまった涙は、別の理由からだったのだが。
「う……わ、悪かった」
随分と素直に謝ってきたことに驚いた。しかもこんなに狼狽えた様子で。あの頃には絶対に見られなかった表情だと思う。それもきっと、サンジが子供だからだ。
そう思うと嬉しいやら悲しいやらで微妙な想いがわだかまる。
サンジはぐいっと袖口で目頭を拭うと、
「こちらこそ失礼いたしました」
と営業用の笑顔を取り繕う。
「日替わりランチ二つ、承りました」
軽く頭を下げてからゾロに視線を向けた。
「すぐにジジィのクソ美味ェランチ、食わせてやるからな」
今度こそ心から笑って、言えただろうか。ただ美味いものを食わせてやりたいという、素直な思いは通じただろうか。
それからはなんだか顔を見られず、給仕は大人のスタッフが行ったので関わることはなかったが、どうしてもそれきりにしたくはなかった。
二人の帰りを見送ろうと、何気なくレジ付近にいたところを気付いてもらえた。ゾロは少しだけ決まりが悪そうな顔をして会計を済ませ、サンジ目掛けて真っ直ぐ近付いてくる。その迫力にたじろぐと、大きな手がぬっと伸びてきた。反射的に目を瞑ると、その手は金色の頭を掴んでわしゃわしゃと掻き乱した。
ぶわ、と胸に広がる甘い痛み、
こんな風に頭全部を包んでしまう程ではなかったけれど、剣を握るゴツくて大きな手が、よくこうして髪をかき混ぜたことを思い出す。嬉しそうにするその仕草に「子供扱いすんな」と文句を言ったけれど、キライじゃなかった。
ただ、今は本当に子供であるのが、辛い。
「さっきは悪かった」
頭全体に感じる、掌の温もり。
上から落ちてくるのは、心震わせる低音。
(あ、やべ、また泣きそう)
俯いて堪えていると、まだ怒っていると勘違いしたのだろう、ゾロはしゃがみ込んで下からサンジの顔を覗いた。
「おい」
辛うじて涙はない。頭を押さえつけられたまま、顔の近さに心臓が騒ぎ出す。
「メシ、美味かった。また来てもいいか?」
琥珀が二つ、真摯に語りかけてくる。
じわりと濃くなるこの色を、知っている。嘘偽りなく、本当の思いを吐露するときのもの。過去何度も向けられたことのある色だ。
サンジはこの色がとても好きだった。
ぐっと拳を握り、ニッと白い歯を出して大きく笑って返してやる。
「おう、次は真っ直ぐ来いよ、迷子マリモ」
「てめェ、ガキのくせに生意気だな、このグルマユ」
もう一度、大きな手で押さえつけられるように頭をグリグリと撫で回される。顔を上げると、こちらも白い歯を出して豪快に笑っていた。
あの頃と同じ声で話し、同じ仕草で触れ、同じ顔で笑うのに。
ゾロはサンジのことを知らないのだ。
サンジばかりが思い出し、胸を焦がしている。何よりもスタートラインが違いすぎる。どうして自分ばかりが遅れて生まれてきたのか、子供なのか。
思い出してしまったのか。
こんな思いをするのなら、知らないまま期待に胸膨らませていた方が良かったのに。
それからもゾロはよく店にやってきた。
一人の時もあれば、ナミが一緒の時もある。いつの時も美味かったと満足そうに笑って帰る姿を見て、早く自分が作った料理を食わせてやりたいとサンジは胸を震わせた。
頬袋をぱんぱんにして無言で、でも嬉しそうに自分の料理を平らげていた光景が脳裏を過る。酒を呷り、ツマミを口に放って小さく上がる口角も。
(早く大人になりたい)
そうしたら何の気兼ねもなく、ゾロの好きな料理を作ってやれるような気がした。
(いや、それなはいか)
大人になったとして、今のこの世界でゾロの隣にいるのはきっと自分ではない。何故なら今傍にいるのはナミだし、ゾロはサンジを思い出さない。もしかしたら、あの頃のゾロとは違う人間なのかもしれない。
こんなにも面影を残しているのに。
酷い拷問だ。
けれど、サンジからは離れることができない。顔を見て、声を聞いて、時折触れる。
ゾロがサンジに触れるのは、完全に小さな子供に対するものだ。時には犬猫と勘違いしているのではと思うほどに戯れてくる。
こんな風に子供と接するヤツだっただろうか。動物には好かれていたとは思う。チョッパーは半分人間だからなんとも言えないがよくゾロの周りに居たし、膝や頭に乗ったり一緒に昼寝したり。
一人で寝ている時でも、気が付けば鳥が群がっていたり、陸でも動物が寄ってきて一緒に寝て、なんてこともあった。でも、子供と戯れているところなんて見たことはなかった。
こんな風に笑うんだ。
サンジの知らなかった事柄なのか、それともやはりあのゾロとは違うということなのか。でも、自分はあの頃と変わらないと思う。何より、この記憶が馴染むと言うか、自分のものであるというえも言われぬ確信。
だからか、サンジのことを思い出さないゾロはあのゾロではないのだ。
それでも面影に想いは募る。新しい出会いとして何かの始まりを期待するには、立場が違いすぎた。
悶々としながらも定期的に顔を見られることは単純に嬉しく、サンジのいる週末や公休を選んできてくれていることに、いらぬ心のざわつきを覚えてまた焦燥を募らせる。
その程度の関わりを過ごしてきて、ある日ぱったりとゾロは姿を見せなくなった。
一週間、二週間程は何か用事があるのだろうとも思ったが、さすがに二ヶ月も経つと心配よりも諦めの方が大きくなる。子供の相手をするのは面倒になったのかもしれない。
どうしたんだと連絡を取れるような間柄ではないし、そもそも連絡先さえ知らない。ただの飲食店で手伝いをする子供と客で、どちらかが絶ってしまえば簡単に切れてしまう関係。
それが、今のサンジとゾロだった。
*****
それから更に二ヶ月経つ頃には、もういい加減終わったことだと思えるようになってくる。だから最後に一つだけ、これだけはやりたいと思っていたことを実行に移した。
祖父に教わりながら何度も練習したケーキを、細部にわたるまで気合いを入れて仕上げた。
もちろん記憶の中に完璧なレシピがある。だが材料もその質も、あの頃のものとは微妙に違うのだ。自分の体の大きさからくる力加減さえも。
そしてなにより、祖父と一緒に厨房に立てたことがただただ嬉しいし、祖父も同じ思いだということは隣にいて強く感じた。憎まれ口を叩きながらもどうしてこんなにも祖父のことが好きでたまらなかったのか、甦った記憶のお陰で納得した。
なんのことはない、彼はゼフだった。大切だった恩人が、大好きな肉親になった。
だからか、ゾロとのこともなにか特別な関わりができるのではと、始めの頃こそ期待をしていた。結局のところ、何もないまま終わってしまったけれど。
だから、これはケジメだ。
今日この日に予定通りにケーキを作って、すべてを終わらせる。忘れることはきっと難しいだろうから。
サンジ自身がこの世界に於いて生まれた日を違わなかったように、きっとゾロも同じだろうと思っていたから、あえて聞くことはしなかったけれど。誕生日にはケーキを焼いて、祝ってやりたかったのだ。あの船で、毎年欠かさずしていたように。
みんなと一緒に大騒ぎをするよりも前、日付が変わった瞬間に二人でいられる時には必ず出していたガトーショコラ。甘ったるいものは好まないということは何と無く分かっていたが、好き嫌いがはっきりとする以前に出してしまったチョコたっぷりのケーキを、ゾロは何も言わず完食した。
程なくしてチョコレートが嫌いだと分かってからは出さなかったが、誕生日の宴会のリクエストを聞いた時、真っ先に口から出てきたのだ。「あのチョコのケーキが食いたい」と。
アレはあんまり甘くなくて、チョコだけどケーキだからなんとなく食べられたことが、嫌いなものを克服できたような気分になって良かったのだと、少し決まり悪そうに言っていた。欲を言えば、もっと甘さを抑えたものがいいと追加注文まで。
料理の、しかも誕生日のリクエストであれば腕を振るわないわけにはいかない。だが甘さが極限まで抑えられた見た目も香りも甘そうなチョコのケーキは、ルフィなら遠慮なく顔を顰め、チョッパーあたりなら泣き出してしまう程苦いだろう。
だからみんなが寝静まった深夜、取って置きのブランデーと一緒にサンジからのプレゼントというのが恒例になった。酒のツマミに甘さのないガトーショコラを口に運ぶその姿を眺めながら、宴の下拵えをする。
そんな時間が段々と大切に思えるようになってきた。少なくとも表情からゾロも近い想いを持ってくれていた、と思う。だからこそ、その先の二人の仲になったのだから。
朝早くに仕上げたケーキは店の厨房にある冷蔵庫奥の、邪魔にならないところにしまっておいた。
この日はいつも通りに学校へ行き、級友とくだらないコトで笑い、放課後は日が暮れるまで遊び、帰ってからは店の厨房でコックたちと同じ賄いを食べ、二階の自宅に上がってからは勉強、後は自分が気付いてできる範囲の家事をこなす。働く祖父との暮らしで、自分にできることなら何でもやった。料理も簡単なものなら作れるが、人のいる場所で食べるのが好きだった。
何より、プロのコックたちの働きを眺めながら、そのコックたちが作った料理を食べることができるのは、将来この店でゼフと共に働きたいと思っているサンジにとってこの上なく恵まれた環境だ。粗暴な男たちが作り出す料理がホールに運ばれ、客の口に入るところは週末の手伝いで見ることができる。賄いの時間は、その料理が出来上がっていくところを観察できる貴重な時間でもあった。
そんなことを考えながら、ゼフのコックコートにアイロンをかけていた。店の閉店十時までまだ少し時間がある。店仕舞いしたら一斉に後片付けが始まる。汚れものを洗い、ホールを清掃し、明日の簡単な仕込みをしてやっと一日の仕事が終わるのだ。
それらが済む頃を見計らって厨房へ行き、みんなにケーキを食べてもらおう。昔のまま口の悪いパティやカルネなんかは遠慮なく不味いというだろうが、きっと残さずに完食してくれるに違いない。不思議と、子供であるサンジには昔以上に目に見える優しさがある二人だった。
時間まで特にすることもなくなり、なんとなくつけたテレビをソファで膝を抱えて眺めていたが、ふと階下に騒がしさを感じた。店と自宅は直接繋がっているわけではないのではっきりとはわからないが、なんとなく空気が違うような気がする。
訝しく思っていると、突然店からの内線電話が鳴った。
「はいよ、なんかあったのか?」
「まだ起きてやがったのか。でかくなれねぇぞ」
「そんなこと言うためにかけてきたのかよ、ジジィ」
「降りて来い、お前に客だ」
かけてきたのは案の定ゼフで、要件だけ言うと一方的に切られてしまった。時計は十時を十分ほど回ったところで、閉店後の後片付けに入ったところだろう。
サンジへの客だなんて、クラスメートなら自宅の方へ来るだろうし、時間も時間だから電話で済ませるはずだ。
そう考えたところで「まさか」という想いが胸をよぎる。
慌てて家を飛び出して外階段を降り、店の裏口から厨房へ飛び込む。そこではコックたちがいつものように片付けをする中で、ゼフが待っていた。サンジの作ったガトーショコラを手にしながら。
「食わせるために作ったんだろう。さっさとそのしけたツラどうにかして来い。何ヶ月も鬱陶しいったらねぇ」
またしても一方的にまくし立てられ、ケーキの載った皿を押し付けられてホールへ放り出された。
一番離れた席に座っている後姿が視界に入り、どくりと心臓が騒ぎ出す。あんな緑頭はそうそういない。どうして今になって、しかも今日、現れたのだろう。
一歩一歩、ゆっくりと近付く。気付いて欲しいような、欲しくないような、相反する気持ちがせめぎ合う。
だって、今日で終わりにしようと思っていたのだ。これ以上どうこうなる見込みのない想いに踊らされるくらいなら、このまま会わずに引き返せばいい。
でも、どうして今になってここに来たのか、しかもサンジへ会いに来たのはどういうことなのか。
(知りたい。あ、どうしよう、顔も見たい)
(どうしよう、やっぱり、会いたい)
歩みも想いも止まらず、どんどん近付く。気配を感じた男が、振り返った。
その顔を目の当たりにし、逸っていた心臓が止まった。と思った。
体の動きが止まり、視線は釘付けになり、手にしていた皿を取り落とした。慌てた男が伸ばした手の先で、皿と上に載ったケーキは落下を免れたが、顔を上げるとサンジが大きな青い眼に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうにしていることに面食らった。
「おい、どうした。皿は無事だぞ」
ケーキの皿をテーブルに置き、サンジの前にしゃがみ込んで見上げて来た、ゾロの、その顔。
(どうして、お前は)
左の眼を潰すように真っ直ぐ走る縦の傷は海の上を生きていた頃、長いとも短いとも言い難い別離の間についたものと寸分も違わなかった。
その頃の記憶を持たないのに、姿形ばかりが追いついて行く。海賊であったなら、それもまた箔がついて良かった部分はあったかも知れない。だが二人が生きる現在には無用の傷だ。
「なんで、こんな……」
震える声で、眼の傷に触れる。
ゾロは困ったよう笑って好きなようにさせていた。
「悪ィ、驚かせたな」
大きな手で金の頭をぐりぐりと掻き乱し、ぼろりと落ちた雫を少し乱暴に手の甲で拭う。
ゾロは立ち上がってサンジの脇の下からひょいと持ち上げると椅子に座らせ、自分は隣の席に腰を降ろした。
「ちょっと、事故に遭ってな」
地元に帰省中、工事現場の脇を歩行中に資材が崩れて来たのだと言う。一緒にいたナミを庇い、眼と、胸から腹にかけて裂傷を負った。幸いナミはゾロに突き飛ばされた際の擦り傷程度で済んだ。
当の本人は暫く生死の境を彷徨い、その間責任を感じたナミはずっと付き添っていたらしいが、ゾロが目を覚ました途端に看護料を払えと言ったそうで、そんな冗談を言えるくらいの長い、幼馴染という間柄なのだと言う。
そうして数ヶ月の入院を経てやっとこちらに戻ることができ、その足で店に来た。
「なんで、オレに……会いに?」
「夢を、見てな」
寂しそうに、ただ泣き続けるだけの夢を、何度も繰り返し見た。そうしたら、クソ生意気に笑ってるお前の顔を見たくなったし、無性に会いに行かなきゃならない気がした。
真面目な顔でそんなことを言い、また大きな手で今度はふわりと優しく頭を撫でられた。その温もりに胸が熱くなる。
(それでも、生きていてくれた)
あの頃だって、何度この男が生死を彷徨う姿を見て来たか。それでも、こうして温かく血の通った体で、サンジに会いたいと思って駆けつけてくれた。
それも、今日というこの日に。
いつだって迷子になりながらも絶妙のタイミングで現れるゾロの運の強さを思い出し、思わず笑いが漏れた。その様子にゾロもホッとし、僅か緊張していた空気が柔らかくなる。
ところで、とテーブルの皿を指差し、先ほど救出したケーキの存在を気にした。
「これは……プレゼントだよ、誕生日の」
「あ? あぁ! 今日、おれの誕生日か!」
「やっぱり忘れてたな」
船の上でだって自分から言い出したことはなく、いつだって自分のことには無頓着だった。そんなところだって変わらないのに、とまた微かに気持ちが重くなる。
「誕生日、教えたか?」
「うん、話の流れで」
少しだけ、嘘をついた。知っていた、と言っても仕方のないことだから。
ケーキを切り分けて、ゾロの前に差し出す。なんとなく気後れしているのがわかる。
「チョコのケーキなんだけどさ、甘さはできるだけ抑えたから、一口だけでも食べてみてよ」
「これ、お前が作ったのか?」
「うん」
「今日、おれが来るかどうかも分からないのに?」
「……うん」
「そうか」
ゾロはフォークを取って、迷うことなくケーキを口に運んだ。それから驚きに瞠目する。
「甘くねぇ」
「うん、だって甘いのキライだろ?」
「あぁ。でもこれならチョコも食えるな。それに酒が欲しくなる」
「言うと思った」
「美味い。すごいな、お前。こんなの作れんだな」
息が詰まるような既視感に囚われながらそれでも、このままでいいか、と思ってしまう。ほんの少しだけ近くにいて、自分の作ったものを「美味い」と口にしてくれる。夢に見るほど気にかけてくれて会いに来てくれるのなら、こんな関係も悪くないのではないかと。
二人でケーキをつつきながら、痛い程の恋心は少しだけ忘れていようと、サンジは心に蓋をした。またいつか、この想いと向き合わなくてはいけない日までそっとしておこう、と。
それがサンジ十歳、ゾロが二十一歳になった、新しい二人の初めての誕生日だった。